鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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破り,季綱は大木戸に退いた。9日の夜には三浦義村ら七騎が国衡草に夜襲をかけ,敵の勇士を討ち取ったが『康富記』に記された「鎌倉方河村千鶴丸十三歳,為先懸七人之内,潜通畠山之陣前之由見了,」の部分は,この夜襲のことを指し,『吾妻鏡』には以下のように記される。「九日内申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戦之由被定之。愛三浦平六義村。葛西三郎清重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤沢次郎清近。河村千鶴丸〈年十三才〉。以上七騎。i替馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。与大軍同時難凌険阻之故也。J(<>内割注以下同じ)(夜に入りて,明旦阿津賀志山を越えて合戦を遂ぐべきの由,これを定めらる。ここに三浦平六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤原次郎清近・河村千鶴丸〈年十三才〉。以上七騎ひそかに畠山次郎が陣を馳せ過ぎ,この山を越えて前登に進まんと欲す。これ天曙くるの後,大軍と同時に険阻を凌ぎがたきが故なり)。味方に先陣を奪われた畠山重忠は家臣の諌言を止めて,これを黙認した。七人は夜を徹して峰を越え,木戸口に着いた。ここで奥州軍と交戦になり,十三歳の河村千鶴丸も数人の敵を討ち取る活躍をした。この翌日,10日は決戦となり,結城朝光等が迂回して背後から国衡陣を攻めたため陣は大混乱となり,霧中に乗じて国衡らは敗走したが,金剛別当季綱の息子は城に残り防戦した。『康富記』の「泰衡方云々,別当子十三歳,討死之由見了jに相当するのがこの部分で,『吾妻鏡』には「国衡郎従等。漏網之魚類多有之。其中金剛別当季綱息下須房太郎秀方。く年十三〉。残留防戦。駕黒鮫馬。敵向撃陣。其気色掲罵也。」(国衡が郎従等,網を漏るるの魚の類これ多し。その中に金剛別当季綱が子息下須房太郎秀方〈年十三〉。残り留まりて防戦す。黒駁の馬に駕し,敵に撃を向けて障す。その気色掲駕なり。)とあり,このあと下須房太郎秀方は奮戦むなしく,工藤小次郎行光の郎従藤五郎に討ち取られる。この「阿津賀志山の戦jで敵味方に分かれた二人の十三歳の若武者は,河村千鶴丸の活躍と,下須房太郎秀方の悲劇が対照的で,絵の題材としては恰好のものであったと思われる。また,絵巻の内容を考える上で『看聞日記』において本絵巻が「九郎判官義経奥州泰衡等被討伐絵」,『綱光公記』において「義経絵」と称されている点が注目される。この称から,本絵巻の内容が泰衡征伐だけでなく,その前段階ともいうべき「九郎判官義経jの討伐も含まれていたことが判明する。ここで注意されるのは,谷信一氏が「藤原行光考jで挙げた源義経関係の一連の資料である(注8)。その第一は帝室博物305

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