3月壇ノ浦の戦い(平氏滅亡)かク館(現,東京国立博物館)所蔵の「義経奥州落jと称する絵巻模本,第二は同じく帝室博物館所蔵の「高舘合戦絵巻Jの墨書の略模(「筆者越前守藤原行光,調三品行忠卿,右者嶋津家ニ有之」の書き入れあり)(注9),第三は『考古画譜』所載の「高舘合戦絵詞J,第四は『倭錦』行光の項に所載の「義経群高松Jである。谷氏は,「義経奥州落j絵巻模本は「行光の画跡を考ふる上には余りにも遠jく,「高舘合戦絵巻jは「行光筆の書入があるけれども参考にならない」としている。たとえ行光の様式を考える上で参考にならないとしても,「泰衡征伐絵」全十巻の前半部分に義経の「奥州落Jや義経が泰衡に討たれた「高舘合戦jの場面が含まれていたことは十分に考えられる。また,「義経群高松jは,『吾妻鏡』の元暦2年(1185)2月19日条の義経軍が讃岐国山田郡高松郷,三木郡牟礼郷を焼いた上で屋島を攻めた,いわゆる屋島の戦いの場面を描いたものを指すと思われる。これに通じる主題の絵巻としては,『看聞日記』嘉吉元年(1441)4月15日条に記された南都喜多院の「平家八嶋絵」三巻や『実隆公記』永正6年(1509)閏8月12日条の「平家物語八嶋絵詞」が想起されるが,あるいは「泰衡征伐絵Jの冒頭近くに,治承・寿永の内乱における義経の平家追討の活躍も描かれていた可能性もあり,注意しておきたい。ここで,治承・寿永の乱から奥州合戦に至る経緯を確認しておくと以下の〔年表1〕のようになる。〔年表1〕寿永3年(1184)元暦2年(1185)文治元年(1185)文治3年(1187)文治5年(1189)閏4月藤原泰衡,高舘の戦いで源義経を討つイシイシイシ// 守護地頭の設置2月ーノ谷の戦い2月屋島の戦い11月源義経,京都より西国へ逃走するも摂津大物浦で遭難10月藤原秀衡没7月源頼朝軍,奥州へ向けて鎌倉を発す8月阿津賀志山の戦い9月泰衡,家人に討たれ,首は頼朝に届けられ桑首される10月頼朝,鎌倉に帰着ィP-306-
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