2〕のようになる。4.「泰衡征伐絵」の制作背景とその目的建久元年(1190)建久3年(1192)このように見てくると,「泰衡征伐絵j十巻は義経の平家追討における活躍,あるいは,義経の奥州落ちの辺りから話が始まったことが推測され中盤の第五巻で奥州合戦最大の激戦であった「阿津賀志山の戦いjが描かれていたことになる。本絵巻の最後の部分の内容は不明であるが,「泰衡征伐絵」の題からすると,頼朝の鎌倉帰着あるいは翌年の上洛あたりと考えるのが妥当であろう。いずれにしても「泰衡征伐絵jは,平氏を滅ぼした頼朝が,弟義経を泰衡に討たせ,さらに奥州藤原氏を滅亡に追い込むという全国統一の仕上げの段階の物語を描いたものとみて相違ない。近年,川合康氏(注10)は,源義経滅亡後,奥州藤原氏との聞に現実的な軍事的緊張がなかったにもかかわらず,後白河院の意向を無視してまでも頼朝が奥州合戦を強行したのは,治承・寿永の内乱期の御家人制を清算し頼朝のもとに再編する目的があったためであると指摘している。さらに,頼朝が出陣にあたって前九年合戦における先祖源頼義の旗にす法をあわせた源氏御旗を調進させ,頼義が安倍貞任を棄首した先例に倣い泰衡を棄首するなど,奥州合戦が頼義の「前九年合戦jを再現したもので,「近世までをも貫く『源氏将軍』という『神話』の起点」としての意義を指摘している点は,「泰衡征伐絵Jの制作背景を考える上で興味深い。次に,このような奥州合戦を主題とする絵巻が南北朝時代に初めて企画され,足利義詮のもとで完成し,少なくとも義政の代まで足利将軍家に所蔵されていたことの意味を考えてみたい。鎌倉幕府の滅亡から,「泰衡征伐絵jが制作された延文4年(1359)5月に至る南北朝時代前半の流れを,足利尊氏・義詮を中心にみると,以下の〔年表〔年表2〕*印は「泰衡征伐絵」制作関連記事元弘3年(1333)イシ11月頼朝上洛,後白河院と会見,権大納言,右近衛大将任官3月後白河院崩ず7月頼朝,征夷大将軍となる4月足利高氏,後醍醐天皇に応じ丹波篠村八幡宮で挙兵5月高氏,六波羅を陥れる。新田義貞,鎌倉を攻め鎌倉幕府307 。
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