ハuqJ これを見ると,「泰衡征伐絵Jの制作された1350年代後半は,足利尊氏,直義,そして南朝の三つ巴の内乱いわゆる観応の擾乱がようやく終息に向かおうとする時期であることがわかるが,本絵巻の制作はこうした政治的背景との関連が推測できないだろうか。ここで「泰衡征伐絵」の制作目的として,足利尊氏の「源氏将軍jとしての権威の象徴,足利直義の追善というこつの視点を提示したい。足利尊氏(当時は高氏)が元弘3年(1333)4月に後醍醐天皇に呼応して,丹波篠村八幡宮に挙兵し六波羅の北条氏攻めを決意した大きな理由は,源実朝で途絶えた源氏嫡流に代わり得る存在として,尊氏が源氏の嫡流を自認していたからに他ならない。さらに,征夷大将軍となって幕府を開くという発想そのものが,頼朝の先例に倣ったものであった。建武3年(1336)11月に制定された「建武式目jは,鎌倉時代の「御成敗式目(貞永式目)Jに倣ったものであり,北条義時・泰時を師とする旨が記されるが,高柳光寿氏の指摘のようにこれも事実上頼朝の政治の再現を指向したものといえる(注11)。また,『中院一品記』建武5年(1338)8月12日条には,尊氏の征夷大将軍任官と同時に正二位叙任が記されるが後者は北畠顕家追討の賞であることが記されている。顕家は元弘3年(1333)に建武の新政とともに陸奥守に任ぜられて以来,後醍醐天皇の皇子義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて父親房とともに奥州に下り,宮城郡多賀を本拠に奥州、防ほぼ掌握していた。建武2年(1335)以後は鎮守府将軍を兼ね,建武5年(1338)に大軍を率いて西上したが5月22日に和泉石津の戦いで尊氏配下の高師直に破れ戦死している(注12)。尊氏が征夷大将軍任官と同時に,奥州を基盤とした顕家の追討の賞により正二位に叙任されたことは,頼朝が奥州を鎮圧した後に征夷大将軍に任ぜられた先例を意識したものといえよう。足利家は頼義の子義家の次子義国に始まり,当然尊氏も頼義・義家ら先祖の事績は良く承知していたと思われる。尊氏が「泰衡征伐絵」に描かれた頼朝の奥州合戦と前九年合戦を重ねてイメージしていたかどうかは定かではないが,「泰衡征伐絵jという主題からは,源氏による奥州征伐と,頼朝による幕府の開設という,室町幕府成立の基盤となった思想との強い繋がりを読み取ることが出来る(注13)。次に,本絵巻の第二の目的,足利直義の追善という点について考えてみたい。足利直義(1306〜1352)は尊氏の一歳違いの同母弟で,幕府草創期の二頭政治においては5月*近衛道嗣,完成した「泰衡征伐絵」を見る延文4年(1359)
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