鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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qべUハU5.醍醐寺三宝院賢俊の「泰衡征伐絵j制作への関与と初期土佐派の活動基盤すぐれた行政官としてその手腕を発揮した。尊氏と直義の兄弟愛を象徴的に示す例としてしばしば挙げられるのは,建武3年(1336)8月17日付で清水寺に納められた尊氏自筆の願文で,今生の果報を直義に与えるようにとの願いが記されている。しかし直義と執事高師直との対立は兄弟聞にも亀裂を生じさせ,やがて観応の擾乱に発展し,観応3年(1352)直義は尊氏に毒殺されるに至る。このような政権樹立の功労者である弟を殺すに至るという不幸な結末は,源頼朝と義経の関係を想起させる。ここで注目したいのは,「泰衡征伐絵」が制作されている最中に,急逮直義への官位の追贈が行なわれたことである。これについて,『後深心院関白記』延文3年(1358)2月12日条には,「故入道左兵衛督〈直義人有贈位事云々,(中略)武家俄申行云々,不知其故,贈位々記内々被遣武家云々,」とあり,幕府がにわかに要望し,それに対して近衛道嗣は「その故を知らず」と訪っている。また『太平記』第三十三巻にはこの故直義の叙位について「法体死去ノ後,如此宣下無其例トゾ人皆申合レケルJとあるように,かなり異例の事態であったらしい。尊氏はこの二ヵ月後の4月30日に没していることから,高柳光寿氏は尊氏がこのころすでに病んでいた可能性を指摘し,官位の追贈が直義の怨霊を鎮めるためのものであることを示唆している(注14)。さらに,尊氏没後も直義の怨霊が恐れられたことは,康安2年(1362)7月22日に直義を大倉二位明神と号して,天龍寺の傍らに洞を建てて杷っていることからもうかがうことが出来る(『後深心院関白記J同日条,『鎌倉大日記j,『建長寺年代記』)。次に,「泰衡征伐絵jの制作に深く関与した醍醐寺三宝院の賢俊(1299〜1357)について見ておきたい。賢俊は持明院統に仕えた日野俊光の子で,建武3年(1336),足利尊氏が西国へ敗走し備後の鞘に至ったとき,持明院統の光厳上皇の院宣をもたらした。このことによって尊氏は朝敵の汚名を払拭し,将兵の意気は大いに揚がったという。その後,尊氏が湊川で戦勝し上洛した際に,その功により同年6月に権僧正に任ぜられ醍醐寺座主に補され,同年12月には東寺長者にも補せられた。賢俊は護持僧として一貫して足利尊氏に従いその政治顧問的役割を果たし,尊氏・直義の三頭政治期には両者のためにしばしば修法を行なっている。その入寂の翌日の『園太暦J延文2年(1357)閏7月17日条には「栄耀至極,公家,武家権勢無比肩之人jと記され,「将軍門跡」と称された権勢のほどが知られる。前述の『後深心院関白記Jの記事によれば,賢俊は

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