「泰衡征伐絵」の詞書の草稿執筆を近衛道嗣に依頼しており,「源氏将軍」としての権威の象徴,直義の追善というその制作目的から考えても,本絵巻の背後には尊氏・直義・賢俊の三者の関係が存在するものと見て良いのではなかろうか。また,幕府成立の物語を描いた本絵巻の制作に当たっては,賢俊自身が室町幕府成立に果たした功績に対する意識も当然あったであろう。このように本絵巻のプロデューサーとも称すべき賢俊と,絵を描いた藤原行光との間にも接点が認められる点に注目したい。〔年表2〕に示したように,観応の擾乱以来,京都の支配者は,尊氏党,直義党,そして南朝の三者が離合集散しながらめまぐるしく変わるが,文和4年(1355)正月の南軍の入京に伴って,後光厳天皇を擁する尊氏・義詮は近江に逃れ,成就寺に行宮を置いた。『賢俊僧正日記J同年2月1日条には「絵所越前守将監等下着,今日参内裏」とあり,行光が後光厳天皇行宮に参着したことが記されている。これは「泰衡征伐絵j完成の四年前にあたり,必ずしも本絵巻制作のための近江下向とは断定できないが,賢俊が行光についてわざわざ記しているのは両者にすでに交流があったことを物語っている。おそらく行光にとって見れば,当時幕府の中で隠然たる権力を持っていた賢俊への接近は自身の活動基盤を磐石にするという大きな意味があったと思われる。行光が賢俊との聞に築いた醍醐寺との関係は,これ以降の初期土佐派の絵師にとっても重要な活動基盤となった点が注目される。現在知られる初期土佐派絵師による醍醐寺関係の画事としては,行光の後継者のひとりとも考えられる藤原光益(六角寂済)が至徳3年(1386)10月26日に醍醐寺球魔堂の後壁画を描いている(『醍醐寺新要録nことが挙げられる。また15世紀に入っても,賢俊と同様に足利義持・義教期にその政治顧問的役割を果たした醍醐寺の三宝院満済の周辺で,藤原行秀が応永20年(1413)に「普賢延命像」(醍醐寺蔵)を描き(『醍醐寺文書.I)(注15),土佐行広が永享6年(1434) 4月に「満済准后像」(醍醐寺蔵)と「真言九祖像」を描いている(『満済准后日記』)。寂済の後継者藤原光国は永享5年(1433)宮廷の絵所料所の押妨を満済に訴えている(『満済准后日記』)ほか,正長元年(1428)に満済の奥書のある「理趣経蔓茶羅図像」(醍醐寺蔵)を描いたことが知られる。また永享7年(1435)に没した満済の四十九日追修用の「両界蔓茶羅図」は行広と光国が描いたと考えられる(『醍醐寺新要録』)。
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