鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(5) 藤原行忠は世尊寺流の能書家で,『公卿補任』によると延文3年(1358)に非参議(6) なお,この時詞書を読んだ菅宰相とは,後花園・後土御門両天皇の侍読を務めた(7) この記事の存在自体は,家永三郎『上代倭絵年表(改訂版)j(墨水書房,昭和41(8) 谷信一氏前掲(注1)「藤原行光考J(9) これら帝室博物館旧蔵の模本についてはJ東京国立博物館収蔵品目録(絵画・書出身の後花園天皇の即位という皇統の移動による同宮家の「再興」という事態のなかで,その皇位継承の正当性を保証するとともに,幕府権力の相対的低下に伴う宮廷権威の上昇を象徴する,極めて政治的な現象であったと位置付けられる。なお,「泰衡征伐絵jの将軍家からの借覧はこの第三期にあたるが,その背後にはこのような政治的事情があったことを確認しておきたい。三谷邦明・三田村雅子『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川書店,平成10年)従三位,永徳元年(1381)に没している(正二位)。なお,「拾遺」は侍従の唐名である。藤原行忠と藤原行光の組合せでは,『看聞日記』永享10年6月7日条に貞治6年(1367)7月に制作された「地蔵験記絵」六巻の絵を行光と善祐が描き,行忠がその外題を染筆した例がある。東坊城益長(1407〜1474)である。年)に収められた「絵巻物文献目録」(初訂版は昭和26年に発行)に示されているが,その内容に関する詳しい言及はこれまでない。跡・彫刻・建築)』(東京国立博物館編,昭和27年)の「模本・大和絵jの項に「義経奥州落絵調J(一巻,紙本著色,縦40.9糎,横930.3糎),「高館合戦絵巻」(一巻,紙本墨画,縦42.4糎,横221.2糎)とある。同川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ治承・寿永内乱史研究』(講談社,平成8年)ω 高柳光寿『足利尊氏』(春秋社,昭和30年)同ただし,奥州はその後も北畠親房,顕信(顕家の弟)父子を中心に,南朝の拠点としてその火種を残している。帥『看聞日記』には,「泰衡征伐絵jの他にも,足利将軍家の所蔵する以下のような合戦絵巻に関する記事が現われ,何らかの政治的目的を持って制作されたものである可能性がある。「和田左衛門尉平義盛絵j七巻(永享10年6月10日条),「平家絵」十巻(永享10年6月13日条),「貞任宗任討伐絵」三巻(嘉吉元年5月27日条,内裏から後崇光院のもとに下されているが,おそらく将軍家の所持),「赤松円心313

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