鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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② 藤田嗣治の1929年一一パりから日本への転換点一一研究者:東京都現代美術館学芸員はじめに以降はパリの諸サロンに一切出品をしなくなる。個展を重ねてはいたが,サロン・ド一トンヌやサロン・デ・テユルリーから離れたのである。特に1929年には,パリにありながら日本に関わる展覧会のみに集中的に出品している。確かに20年代後半には各サロンは重要性を低下し,シャガールやユトリロなども出品を見合わせてはいたが,藤田の行動は彼がサロンで、の、活動に興味を失ったことを意味するのか,それともそのパリでの名声に陰りが見えた結果日本に向かったことを示すのか,興味深い。この時期,一層多くの日本人美術家がパリに渡り,サロン・ドートシヌなどへの入選を目指したことと対照的である。この1929(昭和4)年は,藤田研究にとって特に重要な一年である。二点の日本風の大壁画をパリで完成し,かつ16年ぶりに日本に帰国して個展を開催し,エッセイ集『巴里の横顔』や画集を刊行するなど,日本に急速に接近していく(注1)。当初,本助成の申請書においては「1920年代パリにおける日本人美術家の活動とその評価一一藤田嗣治を中心に」と題し,藤田に限らない日本人美術家の研究を予定していたが,1998年2月にパリ大学都市内の日本館に藤田が描いた壁画の調査が実現し,その分析と継続調査のため,本年は藤田研究に専念することとした。本稿では,これまであまり知られることのなかったこの日本館壁画と,新たに現存を確認したパリ連合国退役軍人クラブの壁画についての調査報告を行い,最後にこの画家が20年代末に急速に日本に向かった理由を考えたい。パリ大学都市にある日本館の壁画〈欧人日本へ渡来の図〉(原題“L’Aηiveedes Occi目にかなり時間をかけて準備した作品で,1930年代に彼が日本国内で制作した銀座ブラジル瑚排店壁画(1934,現・フジタ工業蔵)と秋田の平野政吉邸壁画(1937,現・秋田市立平野政吉美術館蔵)とならぶ,藤田最大級のものである(注2)。この日本館は,1920年代の前半にパリでの名声を確立した藤田嗣治(1886-1968)は,1927年の後半I.パリ大学都市・日本館壁画dentaux加Japonつ〔図1〕と〈馬の図〉(“LesChevaux”)〔図2〕は藤田が1920年代末林洋子24

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