鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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「社交家」薩摩治郎八の寄贈により,パリの日本人留学生のために建設された学生寮である(注3)。その建築に関する資料の多くは,現在外交史料館に所蔵されており(文書名「在外日本学生会館関係雑件巴里薩摩舘J),以下に紹介する事実関係はそれに拠った(注4)。日本館の建設工事は1927(昭和2)年10月12日に始まるが,藤田はすでに前年には薩摩からその広間のための作品制作の依頼を受けており,1926年12月13日付けの駐仏大使・石井菊次郎から外務大臣・幣原喜重郎あての文書には「室内ノ装飾ハ之レ亦薩摩氏ノ年来ノ友人藤田嗣治ニ委嘱ノ心組ナリ」とある。1927年2月の段階で,「階下( 1階)の広間,および正面,講堂及び図書室の正面jに飾る壁画二点の藤田への依頼が内定している。藤田と薩摩の交友は,薩摩が1921年にパリに到着した直後から始まっており,徐々に画家とパトロンの関係に転じていた。日本館の「壁画」は,キャンヴァス地に油彩で描かれ,木枠に張って壁に掛けられたものである。後の修復によりパネル仕立てとなり,画面の保護用にガラス,アクリル板で覆われている。これら二点は,テーマや素材を日本の伝統美術に求めたもので,建物のデザインを十分に意識したものである。各国の伝統様式の適用が日本館に限らず大学都市の建築物全体の方針で,館の設計自体もこの指針に従い,フランス人建築家ピエール・サルドゥーにより日本の城郭建築をイメージして進められていた。「日本文化史及び欧州文明東漸」が大学都市本部,ならびに日本館からの藤田への要望であった(1927年5月12日付け文書)。日本館の壁画は,後に言及する連合軍退役軍人クラブの壁画とならび,藤田の画業でももっとも日本文化,美術を意識して描かれた作品であるが,それは本人の自発的な選択ではなく,依頼者の強い希望に基づいていたのである。藤田はそれまで日本美術を熱心に研究してはいたが,それを表明した本画をサロンや画廊で発表したことはなかった。すでに1923年に自ら編集,仏訳,装画を行った装画本『日本の昔話Jや,1926年のサロン・ド一トンヌに発表した〈栃木山〉(グルノーブル美術館蔵,絹本着色)〔図3〕があったが,後者は当時パリにやってきた元・相撲力士を描くために日本画風を意識して絹地に描かれたもので(注5),彼の油彩画と直結するものではない。外交資料館の文書によれば,1928年の前半に藤田と日本館,薩摩の間に画題と報酬をめぐる応酬が勃発し,藤田と薩摩は1928年春先に一旦決裂した模様である。金銭的な問題とは,30万フランと薩摩が提示した報酬に下絵全般が含まれるかどうかであったが,薩摩が譲歩し,藤田は後にこれらを販売する。なお,30-25-

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