鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
359/759

A吐う1犬況は想定しうるからである。編年の問題は多方面にわたる考察を重ねた後に結論また第三三一窟については,李永寧氏が,則天期の聖暦元年に完成したとされる第三三三窟から発見された「大周李懐譲重修莫高窟仏寵碑J(以下「李君碑」と略称する)の記述をもとに,次のような見解を提示している(注18)。「李君碑jには第三三二窟の功徳主・李克譲の父である李達について「於斯勝岨,造窟ー禽j「毎年盛夏,奉謁尊容,就窟設斎矯香作札」と記されていることから,李克譲の洞窟(第三三二窟)は父の「窟側」に聞かれたことが分かる。では,「父の窟」とはどれか。第三三二窟の北隣は第三三三窟,南隣は第三三一窟である。第三三三窟は小型窟であり,中で「就窟設斎Jはできない。一方第三三一窟は比較的大きいため,中で「就窟設斎,矯香作札jすることが可能である。このことから,第三三一窟が李克譲の父の洞窟と考えられ,第三三一窟の年代は則天期より早い。以上が李永寧氏の見解である。また,第三三三窟の南壁・北壁の壁画は様式的特徴から則天期の第三三二窟より年代が下ると考えられる。しかしこれだけでは,第三二九・三三一窟の具体的な制作年代を断定するまでには至らないだろう。何故なら,早い時期に出現した要素が年代上遅い洞窟にも残るといを下しうるものであり,本稿では様式を形成する一つの要素である,技術的傾向の点において,第三二九・三三一窟には共通性が見られ,その傾向は第二二0窟に近いことを示唆するにとどめておきたい。五,おわりに以上の考察から,初唐期に主流を占める「伏斗頂・西壁一寵窟」群の中で,第三二九・三三一窟には,画工の技術的傾向に共通性が見られることが明らかになった。そしてこの傾向は貞観十六年の銘が残る「伏斗頂・西壁一寵窟」の第二二0窟に近いが,しかし寵の細部の形式には相違点が見られた。ホ業式とは,ある方向に向かつて時間の経過と共に直線的に変化していくものではなく,様々な要素が絡み合い,変化していくものであろう。この多様で豊かな変化の様相を明らかにするためには,比較項目を増やしていくことが必要だ。今後,さらに多方面にわたる比較を行っていきたい。

元のページ  ../index.html#359

このブックを見る