鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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×6 m)は,藤田によれば「幅12メートル,高さ3メートルの一面に西洋文明が東洋へ万フランは当時のレートを1円=12フランとすると2万5千円に相当し,建築費の約一割が当てられた計算である。詳しい経緯は不明だが,最終的には画題も合意に至っている。壁画の下絵が初めて公開されたのは,1928年11月19日から30日まで開催されたベルネム・ジュンヌ画廊での藤田の個展であった。作品自体は現在,行方不明であるが,現地の美術雑誌にこの展覧会評と作品写真が掲載されている(注6)。〈労働〉(“LeTravail”)と題した,四点組の作品である〔図4,5〕。サイズは不明だが(展評によれば相当大きいらしい),ほぼ正方形で二点づっ組になった,デッサンに彩色した作品である。一方の組は,船の甲板から荷卸しをする光景で,男女の裸体に加え,裸体画,櫨に入ったライオンなどが描かれている。これは日本館側から求められた「欧州文明東漸」というテーマを受けたもので,運び込まれる裸体画などは日本にもたらされた西欧文明を象徴すると考えられる。他方の組では場面設定がより抽象的で,数多くの裸体が争い,まるでその筋力を誇示するかのようである。展評では,その場面設定や男女の肌色の描き分けの繊細さを称賛した上で,藤田がかくも大画面の群像表現に取り組んだことへの驚きを示している。これら下絵に基づき,彼は本画の制作に着手する。この間に日本館と藤田の間で下絵をめぐる交渉があったかは不明だが,安土桃山末期から江戸初期の金碧の風俗画に源泉を求めたであろう完成作は,下絵と比べ日本的な要素を強めたものとなっている。もちろん,藤田には金地の利用を日本からの影響のみに限定することは危険で,〈三王礼拝>(1927年,ひろしま美術館蔵)のような宗教画の背景に金を用いた例もあり,またすでに広聞のガラス装飾がアール・デコの著名な工芸作家に依頼されるなどの内装の方針に合わせ,金を用いて金属的な仕上げを目指した可能性もある。二点中,〈欧人日本へ渡来の図〉は1929年4月には完成し,4月9日から21日までパリのルネサンス画廊で開催された「仏蘭西日本美術家協会展」(Salondes artistes japonais) にその素描類とともに展示されている。そして日本館は1929年5月10日に開館を迎え,壁に設置された〈欧人日本へ渡来の図〉と〈馬の図〉も大勢の招待客に披露される。ここで両作品について詳しく見ていきたい。建物入口左手のサロン(広間)の舞台に掲げられた〈巨大人日本へ渡来の図〉(油彩/カンヴァス・板パネル貼り,3枚パネル,3輸入されるという画題で,長崎の遠景を描いた。金箔を置いて数多の人物動物を描い26

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