鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(1) 具体的に何年を以て莫高窟における盛唐期の始まりとすべきかは,今後再検討す(2) 洞窟の総数は注1の史葦湘氏前掲論文180頁の記述により算出した。(3) 奨錦詩「莫高窟唐前期石窟的洞窟形制和題材布局一敦埋莫高窟唐代洞窟研究之ー(4) なお筆者は本稿において「大画面の経変」という語を「莫高窟の伏斗頂・西壁一(5) 敦憧研究院では,阿弥陀経変と観無量寿経変を,阿弥陀浄土の情景を表した中台(6) 『大正新修大蔵経』第12巻346頁下段〜347頁上段に「極楽団土有七宝池。八功徳水(7) 『大正新修大蔵経』第12巻342頁下段に「衆宝国土。一一界上有五百億宝楼。其楼べき問題である。『中国石窟敦士皇莫高窟第5巻付篇敦埋莫高窟内容総録』(敦憧文物研究所編,初版,東京,平凡社,1982年12月,135〜136頁)所収の「莫高窟時代別窟一覧Jでは,玄宗皇帝が即位した712年をもって莫高窟における盛唐期の始まりとしている。一方,同書の底本である『敦憧莫高窟内容糖、録』(敦憧文物研究所整理,第一版,北京,文物出版社,1982年11月)所収の史葦湘「関於敦埋莫高窟内容線録jでは,則天武后の治世までを初唐期とし,705年(神龍元年)を以て盛唐期の始まりとされている。奨錦詩氏も「莫高窟唐前期石窟的洞窟形制和題材布局一敦憧莫高窟唐代洞窟研究之一(摘要)−」(『敦憧研究J1988年第2期(組、十五期)1頁,1988年5月)の中で,神龍年間を以て唐前期第三期(奨錦詩氏の言う唐前期第三期から第五期が盛唐期に当たる)の始まりとしている。この問題は,初唐期末から盛唐期初頭への過渡期に造営されたと考えられる第三一七窟の年代の問題に関わっている。この問題については稿を改めて論じたい。(摘要)-J『敦煙研究J1988年第2期(線十五期)1頁,1988年5月。寵における大画面の経変jと限定して使い,広い面積を擁する南壁または北壁全面を使って描かれた経変という意味において用いることにする。の他に,序文と十六観の両縁があるか否かによって区別しているが,この区別の方法に同意しない意見もある。本稿ではこの問題にはふれず,各経変名は注1前掲書『敦憧莫高窟内容線録Jの記述に従う。充満其中。池底純以金沙布地。四辺階道,金銀琉璃頗梨合成。上有楼閣。亦以金銀琉璃頗梨車栗赤珠馬瑠而厳飾之」とある。閤中有無量諸天。作天伎楽。又有楽器懸処虚空,如天宝瞳不鼓自鳴。此衆音中,皆説念仏念法念比E僧。此想成巳。名為粗見極楽世界宝樹宝地宝池。是為総観想。350

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