鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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の16〜17頁を参照。また,莫高窟第172窟南壁・北壁の観無量寿経変における視点の問題については,粛黙『敦埠建築研究』(第一版,文物出版社,北京,1989年)260頁,楊雄「論敦煙壁画的透視」(『敦埋研究J1992年第2期)の21頁,東山健吾『敦埋三大石窟』(初版,講談社,東京,1996年)172頁において論じられている。同別表lに列挙したもののほか,第六八窟南・北壁,第七八窟南・北壁にも宝楼閣図の資料があり,筆者は実地調査も行ったが,保存状態が良好でないため表には示さなかった。月,62頁。また賀世哲氏は,李君碑の写本から知られる李克譲の名と,第三三一窟の供養者題記から,第三三一窟が李克譲の父の窟である可能性を示唆している。賀世哲「従供養人題記看莫高窟部分洞窟的営建年代」(『敦煙莫高窟供養人題記』敦士皇研究院編,第一版,文物出版社,北京,1986年12月)の203頁。〔附記〕調査にあたり,焚錦詩院長はじめ敦d撞研究院の諸氏のご高配を賜りました。ここに記して謝意を表します。(18)李永寧「敦埋莫高窟碑文録及有関問題(一)J『敦煙研究』試刊第一期,1982年6-352-

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