つ。き捨てたというから(『一遍聖絵』),生前の一遍の寿像が作られたとは考えにくい。(『一遍聖絵』によると,正応元年(1289),一遍が入滅すると,間もなくその終罵の地である兵庫の観音堂に廟堂(御影堂)が建立され,中に一遍の等身大の彫像が安置された。そして,その像を時衆が礼拝している画面が描かれている。)一方真教は,御影と生身の上人との区別に関する興味深い見解を示している。『他阿上人法語』には,「現生にも没後にも所をへだてては,影すなはち知識たるべし。影すなはち信心のまへの知識たるべし。またくふたつ有べからず候。」とあり,『他阿上人家集』には「真影トイフハ其人ノ形見也。此影像ニ打向フ時,彼教へノ詞心中ニ浮ピテ眼前の如シ。」と記されている。真教は,御影を認めるだけでなく,信仰の手段として積極的に評価しているのである。真教の寿像が作られた背景には,膨張する教団を率いる手立てとして御影を活用しようとする真教自身の考えがあってのことと考えられる。そのため,前述した「筒の御影jと称された真教の寿像が制作されたのであろ四知識帰命ところで,時宗の重要な教義として「知識帰命(帰命戒とも)」の考えがある。知識すなわち遊行上人には絶対的にしたがわなければならないという考えである。この帰命戒は,教団の中で長く受け継がれたが,一遍がこの戒を定めた根拠は,『一遍聖絵』や『遊行上人縁起絵Jには記述がない。しかし,他阿真教が著した『奉納縁起記』(真教が『一遍上人縁起絵』(現存せず)を熊野本宮に奉納したとき,その事情を言己したもの)によると,一遍が帰命戒(知識帰命)を定めたものとしている。今日,帰命戒は,一遍が定めたものか,後継者の真教が定めたものか,研究者の見解は分かれている。いずれにせよ,時宗は,少なくとも真教の時代には,教団の統率者に対する絶対的な帰刊衣の精神が強かった。時宗寺院に絵画・彫刻とも一遍,真教の像をはじめ,歴代上人の像が多くのこされているのもこうした知識への絶対的な帰依の精神からくるものと考えられている。ところで,『奉納縁起記jの帰命戒の中には,知識を阿弥陀仏の使いとするという記述カ宝ある。また,『遊行上人縁起絵』巻十第三段には,下野国小野寺の某が霊夢を見たとしサ記事があり,「夢に金色の阿弥陀を拝す。傍らに菩薩まします。大勢至也。観世367
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