鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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害)は,クレーの素朴な主題とはその内容が違っているけれども,紳士服装の酒に酔ったような表情の主人公たる男は,クレーの作品ではコンプレックスを持って悩んでいる紳士に変容されている。特に胸にあるハートのマークは偶然の一致とは思えないほどである。クレーの素描の背景を見ると,中央に集中する太い矢印のため,素描の全体的構成が紳士の方に集約されているように見えることからもたらされる,構築的な緊張感は別にしても,円や楕円,そしてその矢印さえもが{G事件〉の背景の抽象的な形態らと対応しているようである。さらに,その背景の左上の抽象的な文様は1917年のグロツスの一枚の素描一一ヴイラント・ヘルツフェルデ(ジョン・ハートフィールドの弟)の詩集のための表紙一ーにおけるパラ窓のようなモティーフと対照した時にも特にその類似性が目立つ。3.接点になった人々,1929年の写真,グロッスのコメントについて1914年11月,ミュンヘンの版画出版社から刊行される隔週雑誌の『時代の反響(Zeit-Echo)』3号に表現主義の詩人で評論家のテオドール・ドイブラー(TheodorDaubler) の詩に寄せたクレーのリトグラフ(1914年作)が掲載される。また,ドイブラーは1917年に「シュテュルムにおけるパウル・クレーとゲオルク・ムーヒェ」と題した展覧会評を『ベルリン株式新聞(Berlin巴rBi:irsen-Courier)』(49巻68号,2月10日付)に書くことを始めとして,これ以来クレーに関しての重要な論評を1920年頃まで次々と発表する(注6)。一方,ドイブラーは1916年『新青年(NeueJugend)』を通してグロッスに会う。『新青年J出版社が開催する第l回「講演の夕べ」(1916年9月13日)以来,ドイブラーとグロッスはヘルツフェルデ等と何回か共に自作の詩を朗読する。そしてその年にはヴイラント・ヘルツフェルデによって編集・発行される前述の雑誌にグロッスの詩と素描が載せられる。ついに,11月に『デイ・ヴァイセン・ブレッター(DieWeissen Blat-ter) Jで彼に関する最初の重要な評論を行なって,ドイブラーはグロッスの作品を分析した最初の人になる。グロッスの名前を決定的に有名にしたのは,このドイブラーの記事とエルゼーラスカ=シューラーの,グロッスを歌った詩(1916年8月)であった。グロッスはまた,1917年に水彩素描〈出産>(1923年に『この人を見よEcceHomoJ で再版)' 1919年〈秘密祭〉をドイブラーに捧げて制作したり,1918年のベンによる水376

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