鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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彩画〈ウイスキー〉においても彼の激励に答えてドイブラーに捧げる言葉を書き記したりする。さらに,同じ年のベンによる素描〈活気のある街の風景〉の一角に,ドイブラーを描いてもいる。このドイブラーとは20年代末期まで長いつき合いが続けられる。クレーとグロッスに共に関わった代表的な画商と言えばハンス・ゴルツ(HansGoltz) であろう。1912年2月12日から4月2日まで,ミュンへンのハンス・ゴルツ書店で開催された版画作品のための第2回〈青騎士〉展に,クレーの作品が17点展示される。そして,この年の10月にハンス・ゴルツ現代美術画廊が開店し,オープニング展の一環としてクレーを全般的に紹介する最初の展覧会が開催される。1919年10月1日にクレーはこのゴルツ画廊と契約を結ぶが,この契約は1925年まで延長される。1920年の5月と6月の聞には初の大規模なくクレー回顧展〉がまたこの画廊で開催される。グロッスの場合は1918年頃からゴルツの画廊と独占契約を結び作品が販売され始め,1922年までこのゴルツが彼の作品の代理販売をしている。そして,クレーと同じく1920年にここでグロッスの最初の個展が聞かれた(注7)。ヴェルクマイスターは,ごのゴルツの画廊でクレーがグロッスの作品を見たと想定している(注8)。後述するデッサウでの写真にクレーやグロッスと一緒に写っているアルフレート・フレヒトハイム(AlfredFlechtheim)とは,クレーはドイブラーの仲介で1919年に接触し始め,1920年3月から4月までデユセルドルフのフレヒトハイム画廊支店で聞かれたくレンブルック追悼,クレー,ヴァルタータンク〉展で出品したのに加え,1929年はクレーの生誕50年を記念して,ベルリンのフレヒトハイム画廊で大規模な個展が聞かれる等,交際が続けられた。一方,グロッスは1923年ごろから,主にフランスのモダニスト達の作品を紹介していたこの有名な画商の画廊で個展を開くようになる。グロッスは1933年彼がアメリカに移住した後もフレヒトハイムとは作品取り引きの関係で連絡を続ける(注9)。少なくとも今まで見てきた3人の人たちを通して,1920年前後にクレーとグロッスが間接的にせよ何らかの形で接点を持っていたことは十分推測できる。しかしながら,クレーがグロッスからの影響を受けたことについてのドキュメントと,前述した作品が後者から前者への影響から生まれたという直接的な証拠は見つけにくい。しかし,ここで一つの写真を根拠に両者の間で,少なくとも1929年には交流があったことを認めることができる。序論でも示したように,1929年6月にデッサウで、撮った1枚の写-377-

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