鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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るとおりである(注10)。カンデインスキーはキュピスムの作品を多く実見してピカソとブラックには注意を払っており,なかでもピカソをマテイスと並んで、ひときわ高く評価していた(注11)。対象を分解してほとんど判別し難くしてしまったキュピスムの作業を手本とするかのように,カンデインスキーが対象を溶解していった時期は,ちょうど彼がキュピスムの作品に接した時期と重なっている。ところで,以前私は,カンデインスキーの「抽象絵画Jを生涯にわたり特徴づけているもののひとつとして,その画面を幾重にも複雑に構成し,平面的であるようで距離の定められない暖昧な深さを持ち,見方によって様々に変化する重層的多義的構造があると分析し,そうした複雑な空間を現出させる一重要手段が,縁取りないしは楕円と呼ばれる「枠構造」であると論じたことがあった(注12)。この枠構造こそ,抽象絵画の可能性を探るカンデインスキーが大きな関心を寄せていたキュピスムと,実は極めて近いものなのである。当時,ミュンヘンをはじめドイツ各地で最新のキュピスム作品が紹介されていたが,ピカソらの初期キュピスム作品が分析的キュピスムに変化するにつれて,カンデインスキーの画面にも変化が現れる。分析的キュピスムの特徴,つまりあくまでも現実の世界に拘り,決して対象の物質性を捨てず,断片的であろうと見てそれとわかる対象の一部を必ず描き込むことにカンデインスキーは同意せず,遺憾の意を表明してはいても(注13),二次元性と三次元性の意識的に併存する画面,しかも対象を中央部分に集中させ,その周縁部分を余白さえ伴うフラットな空間に,さらには楕円のカンヴァスをも使用して中央と周縁,中央と四隅を区別したことが,新しい造形を求めるカンデインスキーに大きな刺激を与え,それ以降の彼の作品を特徴づける重層的多義的空間創出に役立つ枠構造に,彼の眼を向けさせる契機となったのだと想定できるのである。キュピストが大いに利用したパッサージュの技法も,カンデインスキーの当時の作品に,一つには画面を均質化する方法,一つには対象を溶解し抽象化する方法として用いられている。少なからぬ数のキュピスム作品に触れるという視覚体験を通じて,カンデインスキーは対象を溶解するだけでなく,枠構造という新しい空間表現を生み出し,抽象への解決策を手に入れたのであった。カンデインスキーにとってキュピスムから得た視覚体験は単に一過性のものではなく,「抽象」へ向かう彼の造形言語に大きな揺さぶりをかけ,枠,縁取りという新たな絵画表現に彼を導き,しかもそれが彼の作品を生涯にわたって特徴づけることになった,画期的な出来事といえるだろう。-383-

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