展jへの出展を取り付けるとともに,以後も書簡のやりとりを重ねている(注16)。翌皿1911年の秋,カンデインスキーはパリに住む友人から送られてきた数枚の写真でドローネーを知った(注14)。当時のドローネーは,ピカソらのキュピスムに触発されてその特徴を自分の作品の中にも取り入れ,ちょうどキュピストのひとりと目されていたころである。カンデインスキーは,すでにドイツでも高い評価を受けていたピカソとマテイスに強い関心を抱いており(注15),1907年から翌年にかけてパリ近郊に滞在したこともあって,ドイツに戻ってからも常にフランスの動向に注意を払っていた。サロン・ド一トンヌ,サロン・デ・ザンデパンダンに出品を続けていたのもその表れであろう。新しい絵画のあり方を模索していたカンデインスキーはまた,注目すべき画家たちの作品を自身が企画する展覧会に招待する立場にあった。ピカソとブラックは既にドイツ人の画商カーンワイラーと契約を結んでいたため,カンデインスキーが彼らと直接に交渉することはなかったが,他のキュピストとは比較的連絡をつけやすかったのである。そこでカンデインスキーはミュンヘン新芸術家協会を脱退し新たな展覧会を聞くにあたって,まだドイツでは名の知られていない前衛的な画家たちに呼びかけを行った,といえるであろう。なかでも彼の興味をひいたのがドローネーだ、ったのである。彼は若きドローネーへ積極的に働きかけて同年末の通称「第l回青騎士年にはカンデインスキーの勧めで画家仲間のクレーを始め,マルクとマッケがドローネーを訪ね,ミュンヘンのグループとドローネーの交流はさらに活発になった。先学の研究ではむしろ,実際にアトリエを訪ね,大量の作品を見た彼らや,他のドイツ,ロシアの芸術家とドローネーの影響関係を明らかにする論考が多く(注17),カンデインスキーとドローネーについては,これまで彼らの色彩に関して幾つかの見解がある程度であった。たとえば,オーブリーは二人の鮮やかな色彩に類似があると指摘するが,ドローネーのそれをフランスの伝統のなかに位置づけて説明を終えているし(注18),ラングナーはドローネーと青騎士展のかかわりを詳述し,マルクの作品へのドローネーが与えた影響の大きさを語るものの,カンデインスキーとドローネーの作品に色彩の類似を見て,カンデインスキーの1913年末からの色斑のある作品にドローネーの「円環」の反映があると簡単に片づけたまま,具体的な根拠を示してはいない(注19)。1997年末に開館したドイツ・グッゲンハイム・ベルリン美術館のこけら落としを飾った特別展「パリのヴイジョン:ロベール・ドローネーの初期連作jは,ドローネ-384-
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