鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ーの1909年から1914年までの作品を集めたもので,そのカタログではドローネーをめぐる当時の状況が語られている(注20)。カンデインスキーに言及した部分もわずかながらあったが,ドローネーがカンデインスキーの理論に興味を持った,との指摘にとどまった(注21)。カンデインスキーがドローネーの作品を写真で知ったころ,彼はアンリ・ル・フォーコニエというパリ在住の新進気鋭のキュピストと既知の間柄であった。二人は手紙を交換し,ル・フォーコニエはカンデインスキーが1911年10月まで会長を務めていた新芸術家協会に1910年から会員となって,展覧会に出品するほか,カタログに文章を寄稿している(注22)。その文章をドイツ語に訳したカンデインスキーは,その著書『芸術における精神的なものJでこのル・フォーコニエの文章を参照せよとも述べている(注23)。1912年5月に出版された年鑑『青騎士』誌にはピカソ,ドローネーと並んでル・フォーコニエの作品も掲載された。彼らの関係が悪化したわけで、はないが,しかしカンデインスキーの興味は徐々にル・フォーコニエからドローネーに移っていたようである。1911年の「青騎士展」にも出品され,年鑑『青騎士』誌に載せられた2点のル・フォーコニ工作品のl点のみが全ページ大の扱いであったのに対し,ドローネーの作品は3点とも全ページ大で載せられている。しかも興味深いことに,ドローネーの1910-11年の〈エッフェル塔〉はエル・グレコの〈洗礼者ヨハネ〉と対峠させるかのように,見聞きでそれぞれ左右のページに掲載された〔図3〕。同様に,時代も場所も様式も異なる様々な作品が,好んで左右のページに対置させられている。そのことについてカンデインスキーから特に説明はされていないが,マッケが『青騎士』誌に寄せた論文「仮面」において,真の芸術はその形態のうちに人類共通の崇高なる言語を語るとして,異なる文化圏の作品を並置する意義を説いている(注24)。ピカソやブラックのキュピスムが対象の物質性に拘り続けることに異議を唱えていたカンデインスキーが,ドローネーの作品からは対象の再現以上のものを感じとっていたのではなしミかと思うのも,ラングナーも指摘するようにあながち不自然なことではあるまい0主25)。実際,その後のドローネーの展開は,外的な現象の再現は希薄となり,はるかに感性,感覚に重きを置いたものとなってゆく。カンデインスキーが「抽象Jを推し進めるにあたって支えとし,拠りどころとしたのは,自ら語っているとおり,もっぱら「内的必然性」「精神的なるものJであったし,これまでにもそれを裏付ける様々な石青究が行われてきた(注26)。また『青騎士』誌編集の段階で,カンデインスキーは385

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