phu qtu 町ドローネーに原稿依頼の手紙を送り,芸術家としての意志表明のようなもの,あるいはキュピスムについての考えを寄稿するよう促している(注27)。結局ドローネー自身が原稿を書くことはなかったが,彼の提案で彼と親しいドイツの美術史家エルヴイン・フォン・ブッセによる「ロベール・ドローネーの絵画構成法jという好意的なドローネー論も載せられていた(注28)。そこでは確かに,ドローネーの目的が自然の再現にあるのではなく,自然観察するうちに内面に湧いてきた観念を具体化することにある,と述べられている(注29)。これはドローネーの代弁といっても過言ではなく,そればかりかドローネーがカンデインスキーやマルクらにアビールするためにブッセの論説を推したといえるかもしれない。ドローネーは一時期,ピカソやブラック同様色彩を押さえて対象を分解するキュピスムの方向に向かうものの,もともと新印象主義的な作品を描いていて色彩への愛着が強く,1912年にはキュピスム的な形態に鮮やかな色彩を使う独自の画法に至る。ダイナミックで自由な空間を生み出した〈窓>(1912年から)や〈円環,同時的>(1912 年末から)のシリーズでは,キュピスムを出発点としながら現実の対象に基づくピカソらの構成から離れている。先述したように,これまでカンデインスキーとドローネーに触れた研究は,彼らの作品に見られる色彩の鮮やかさに類似を見いだしたものであった。確かに,カンデインスキーは1911年11月制作の〈コンポジションV)前後の「抽象的な」作品で彩度の低い作品を描いていたため,ドローネーと交流を持ちその作品に実際に触れる1912年あたりから画面が再び明るくなった,とはいえるかもしれない。ただ,元来カンデインスキーも豊かで鮮やかな色彩を自由に使った作品を制作していたのであり,1911年から1913年にかけての「抽象的な」作品にも依然明るい色彩が用いられているものも少なからずあって,ドローネーとの交流を機に鮮やかな色彩がよみがえったと判断するのは早急で、あろう。だいいちカンデインスキーが1912年春の段階で確実に見たドローネーの作品は,〈サン・セヴラン教会〉や〈エッフェル塔〉,〈街〉など,他のドローネーの作品に比べて鮮やかな色彩のはるかに乏しい作品であった。しかもカンデインスキーがドローネーを高く評価し,自ら積極的に手紙を送っていたのは1912年前半までであって,その後ドローネーと連絡を取り合ったのはマルクやマッケらである(注30)。カンデインスキーは1913年の「第l回ドイツ秋のサロンJ
元のページ ../index.html#396