δっο口ドローネーの作品からも対象再現以上の何ものかを感じていたと考える方が無理がない(注35)。造形的に見ても,中心へ向けて奥まる構成は確かに「枠構造」と呼ぴうるものであり,ピカソらが中心へ盛り上げるように対象をまとめ,その周囲に余白を生じることによってできた「枠構造jとはちょうど逆のかたちをとっている。しかしそれは,深く,距離の測りがたい暖昧な空間を好んで、作ったカンデインスキーの1913年前半の作品,〈コンポジション日〉〔図5〕や〈白い縁取りのある絵〉〔図6〕の中心部分同様,徹底した深みを持ちながらその奥で明るい光がこぼれ,湧き上がるイメージを創り出し,ピカソらの分析的キュピスム作品とは異なる独特の構造を呈している。それゆえ,このような構成にカンデインスキーの日を慣れさせることになった可能性も否定できない。しかもカンデインスキーの深い空間を生み出そうとする作品がセザンヌへ結びつく線上にドローネーの存在を見たとすれば,前衛を標梼するカンデインスキーを勇気づけることになったであろう。〈エッフェル塔〉と〈街〉(図7〕のシリーズはキュピストらしい作品で,エッフェル塔とその周りの建物,背後の雲などが見てそれとわかる程度に具象性を残しながら解体され,かつ互いに結びついている。これらの作品は初め,単にエッフェル塔のあるパリの風景に過ぎなかったが,〈エッフェル塔〉のシリーズでは中央に大きく塔を描き,周囲の建物のなか,あるいはカーテンのある窓の向こうから,塔が力強く立ち上がってくるような作品に変わっていった。塔はキュピスム的に解体され,いくつもの視点からとらえられ再構成されている。〈街〉のシリーズでも,高い位置から怖轍的に眺められた奥行きある町並みが,やがて窓を組み込むことによってそこから眺められたものとなり,極端な近景(窓)と奥行きを持った空間とが結びつけられている。すなわち,そこでは遠くにエッフェル塔を臨む窓外に広がるパリの眺めが描かれているのだが,解体された対象物の上に点描とパッサージュを合わせたような細かい筆致が置かれ,対象物をより緊密に結びつけたのである。これによって対象物だけでなく,三次元的奥行きと二次元的平面性が連続して結びっく。パッサージ、ユはキュピスムの常套的な手法であり,もとを辿ればセザンヌが始めたものであった。ピカソらもそうしたように,異なる空間も対象も主従のない同じレベルで結びついて連続性を確保し,本来別々のものながら一体化されて質感も密度も画面のなかで均一になる手法である。しかしドローネーの場合,ピカソらと違って,人物を扱ってもそれらを風景のなかに組み込んで,常に大きな広がりのある空間を相手にしている(注36)〔図8〕。当時の
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