。。カンデインスキーが描いていた「抽象的な」作品,〈コンポジションV}(1911年)〔図9〕も,スケールの大きな宗教的命題を持ち,まさに壮大な広がりを持つ空間を扱うものであった。近景と遠景,さらに背景の空までもが揮然一体となって漠然とした空間を生み出しているドローネーの画面は,例えばカンデインスキーの〈インプロヴイゼーション26(ボート漕ぎn(1912年)〔図10〕のような,それぞ、れの形態も色彩も重ねられまた透過されて互いに入り混じり,漠然とした空間を生みだす作品に通じるものがある。その後,アポリネールによりオルフイスムと分類されることになったドローネーの〈窓〉〔図11〕シリーズ以降の作品では,鮮やかな色彩のなか,より自由でダイナミックな空間の創出に向ってゆく。ただしそこに見られる自由な空間は画面全体に広がっていて,「枠構造」からは遠ざかっている。さらにドローネーが〈円環〉のシリーズに取り掛かるのは1913年夏のことなので,その年の秋のサロンでカンデインスキーの目に触れたとしても,「枠構造」での繋がりはむしろ薄い。クレー,マルク,マッケらが高く評価し影響を受けたドローネー〈窓〉や〈円環〉のシリーズを,カンデインスキーはそれほど高く評価しなかった。それどころか「オルフイスム」と規定されたドローネーの1912年以降のそうしたシリーズが描かれはじめる頃,カンデインスキーがドローネーへの連絡を控えるようになったのである。カンデインスキーがピカソらを高く評価しながらもその作品に異議を唱えていたのは,彼らがあくまでも現実の対象にこだわり,それを捨てないことにあった。ならばドローネーがエッフェル塔のような具体的な対象物に基づきつつもキュピスムの手法で広大な空間や極端な遠近を表現したり,教会内陣に光が射し込むモティーフを描いたりしたことを,カンデインスキーはなぜ受け入れ,その後のほとんど抽象的といってもよいオルフイスム絵画を退けたのであろうか。おそらく,ドローネーが前衛的な手法を用いながら先の二つのシリーズではセザンヌに連なる構成を用いたり,宗教に結ぴつく対象を扱っていたりしたことが大きいと思われる。しかしオルフイスム絵画になってしまうと,鮮やかな色彩を用いて,光そのもの,太陽そのものという捕らえがたいながらも確かな対象物を画面いっぱいに描き,それまで保っていた深みのある空間がそれほど省みられなくなった。しかも矩形や円形など,まだ当時は使いこなせるものがいないとカンデインスキーが述べていた形態を使って,である。カンデインスキーは当初,ドローネーを自分と同じ意図を持ったキュピストと考えたかったのであろう。つまり,現実の対象,なかでも物質から決して離れないピカソらのキュピスムにはないものをドローネ
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