注ーに期待していたのだと思われる。だからこそカンデインスキーは著作を送ったり,芸術に対する考えを繰り返し手紙で、語ったりして,ドローネーの賛成を求めたのである。初めはカンデインスキーの説く「芸術における精神性」に賛同していたドローネーも,次第にその作品のなかにカンデインスキーが評価し求めていたものとは異なる,物質性が打ち出されるようになり,アポリネールらの後押しもあってドローネーが独自の画法を確立していったとき,カンデインスキーはドローネーから離れていったのであろう。ピカソやブラックが対象を中央にまとめその周りに余白を生じさせた作品や,余白部分を切り取って楕円のカンパスを使用した作品を,カンデインスキーは遅くとも1911年には見ており,同年にはカンデインスキーの作品にも形態が中央に集まる傾向を確認できる(注37)。カンデインスキーが「枠構造Jを油彩作品で明確に用い始めるのは1913年5月に完成する〈白い縁取りのある絵〉を待たなければならないが,彼がドローネーの〈サン・セヴラン教会〉や〈エッフェル塔〉,〈街〉のシリーズを1911年末から実際に見ていったことも手伝って,ピカソらのキュピスムと並んで、,カンデインスキーの作品の中に二次元性と三次元性の混在し暖昧で測りがたい深さを持った「枠構造jが生まれる契機となったと考えられるのである。第一次世界大戦に向かうなかで,当時は会うことのなかった二人の前衛画家は,キュピスムを介してほんの一時,しかし深く触れあった,といえるであろう。結局彼らが初めて顔を合わせる機会を持ったのは,カンデインスキーがドローネーに最初の手紙を送ってから23年後の,1934年であった(注38)。lished, 1948), pp. 111 114. (2) Bill, Max. (Hrsg. und kommentiert), Kandins匂:Essaysuber Kunst und Kunstler (以下Essaysと略す), 3 . Aufl., Bern 1973, pp. 212f.;ゲルカ・シェーヤー宛1937年6月29日付の手紙,J.B.ノイマン宛1936年5月10日付の手紙(Hahl-Koch,Jelena, Kand insか,London1993, pp. 330, 352, 354)など参照。(3)少なくとも1919年以降は,1911年が最初の抽象絵画を描いた年(Roethel,Hans Konrad und Hahl-Koch, J. (Hrsg.), Kandinsky. Die Gesammelten Schriften, Bd. 1 , (1) Greenberg, Clement,“Kandinsky”in Art and Culture, London 1973 (Originally pub--390-
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