鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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f支軍人クラブの壁画もほぼ同時期か,若干後,つまりこの年の夏の制作であると,現4犬では考えるものとする。ジョワ女性からの肖像画の注文が殺到しており,これもおそらく注文による制作であろう。先の二壁画と同じく金箔が用いられている。この場合,人物を描いてからその背景のみに金箔をおいたことは明らかで,人物の輪郭線に金箔が被っているところがある。その女性自体は,日本館壁画の人物表現と同じく,人物の部分には下地が分厚く塗られた上に面相筆による帝国い線でリジッドに描かれているが,背景のつがいの維や花木は退役軍人クラブでの花鳥のようにやわらかな描線に淡彩で,線や色面の下から金色が透けてみえる。対照的な表現を持つ二壁画の両方の要素を兼ね備えたこの〈坐る女〉の科学的な分析が望まれる。この作品の完成が1929年7月であることから,退今後の研究のために一般の目に触れる機会があまりなかった日本館と退役軍人クラブの壁画に関するフランスでの記事は驚くほどに少なく,知名度も低い。その一方,藤田は日本館の〈欧人日本へ渡来の図〉の写真を1929年秋に日本で刊行した自作集に掲載し,囲内でその下絵に当たる裸体デッサンを販売するなど,日本でこの作品にしぼって紹介したのはなぜだろうか。この1929年6月1日から7月15日に,日仏両政府の肝入りで「日本美術展一一一現代の古典派J(Exposition d’art japonais, Ecole classiqu巴contemporaine)がパリのジ、ユ・ド・ホ。ムを会場に開催されている(注15)。藤田は〈闘争〉〈動物〉二点の出品だけでなく,展覧会自体の展示委員を務め,ポスターやカタログの表紙,展示場の門のデザインもナ旦当している。カタログに掲載されたモノクロ図版の〈闘争〉は1928年11月のベルネム・ジ、ユンヌ画廊での〈労働〉に近く,〈動物〉とともに日本館壁画の下絵と思われる。づまり,1928,29年の個展,グループ展の彼の出品作の大半を,日本館の習作的な作品が占めていた。藤田は「日本にゆかりのある」その習作類を,日本人画家グループや日本政府の支援で、20年代末のパリで盛んに聞かれていた「日系J展覧会にのみ発表Lたのである。冒頭で「1927年の後半以降はパリの諸サロンに一切出品しなくなる」と述べたが,この時期は日本館壁画への取り組みと偶然にも符合している。1927年後半から構想、を糸東りはじめ,1928年後半に集中的に裸体デッサンとコンポジションをこなし,1929年-31-

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