鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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b画壇の世代交替期としての寛政年間寸なお,リストとあわせ,比較作業によって伺われた画壇の動向についても大まかにのべてみたい。〔表1〕は,資料にその名を確認できた画人を序列化してみたものである。序列の基準として,まず,『平安人物志J天明2年版登載者をその登載順にならベ,続いて『人物志』文化10年版の登載者および『人物誌』未載者を,その確認頻度の高い順にならべている。同時に,寛政度造内裏障壁画制作の経験者および被推薦者は,頻度が少なくとも先の順位においた。まず,天明2年版の画人たちは,世代上二通りに別れる。すでに晩年期についた画人と,まだ円熟期の途上にある画人である。寛政期にはいり早々に没してしまった山本守札はもとより,円山応挙をはじめ,伊藤若沖や三熊花顛など,寛政期に生涯を終える画人は,表では早い時期にしか確認できない。ただし,源璃や芦雪などは,没年近くもしくは,それを過ぎた資料にも確認でき,急逝にちかい形で没したという伝承を,本資料群からも伺うことができる。対照的なのは呉春である。彼の名が確認できる資料は14件にもおよび,障壁画・展観・寄合・版本とまんべんなくこなしている。画壇の寵児ともいうべき活躍である。また,原在中や岸駒といった,呉春に続いて一派を形成してゆく画人たちも,コンスタントな実績をつんでいる。在中は彼の仕事を反映してか,版本への作画はない。一方で,岸駒は呉春にも似た偏りない実績である。なお,紀楳亭も同様数の確認ができる。むろん彼の場合は俳書への比重が高い。この時期を最盛期として,文化年間には移住先大津での隠遁的な作画が中心になったのか,確認件数が急落する。ところで,この時期の半ばから,急速に確認件数を増やして台頭してくる一群の画人たちを確認することができる。確認件数15件の山口素絢を筆頭に,彼らの上位10名は,東洋,月峰,風折有丈をのぞき7名が応挙門・呉春門である。またそこからさらに以下10名のうち7名(土佐光貞,河村文鳳,紀竹堂以外)が同様となっている。とりわけ,山口素絢・奥文鳴・岡本豊彦・西村楠亭・円山応瑞・渡辺南岳らは二桁数を確認でき,以下に続く,佐久間草僅・秀雪亭・木下応受・山跡窪嶺・浅井義篤・白猷・松村景文らを合わせると,彼らのうちのいずれかが必ず,寄合に参加していたり,版本に作画していたりといった状況になるばかりか,彼らで,寄合や版本の揮事者を独402

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