鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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占してしまったものも少なくない。画壇の絵師がまるごと世代交替してゆくような過程を,本稿の表に現れた確認件数のコントラストが示しているとはいえないだろうか。なお,大作事の障壁画制作以外においてその名が資料に現れず,偏った画事を示す画人たちもあわせて確認できた。彼らはいずれも鶴沢派・土佐派門下の絵師たちである。その理由を伺う資料は確認できていない。彼らには民間のニーズがなかったのか,それとも禁裏御絵御用を司る立場や,自流の絵画スタイルを守るためからか,他流との世俗的な画事を,遠慮せざるをえなかったのだろうか。いずれにせよ,当時,かなり盛んになりつつあった画壇的な絵画情勢からは,一歩退いた存在であったことが判明する。b「絵入俳書Jの盛行寸寛政期の資料のうち,絵入俳書の占める割合は多く,文化〜文政年間に比べても際立っている。件数にして14件。特にこの時期において,絵入俳書の刊行が盛んになったのかは,様々な要因が考えられよう。もとより,俳譜は,社中のネットワーク関係によって培われる文芸であり,媒体による作品発表を盛んに行ってきた文芸である。芭蕉や蕪村をはじめ,名のある俳人は,生前・没後にわたって少なからずの俳書や歳旦帖を自身や門人が刊行し,句会や歌仙巻きなどの興行を催すことが,俳人の活動の場である。活動形態そのものが,大衆的な運営やメディア展開を必要とする文芸といえようか。かたや,当時,画人の社会は,『平安人物志』や『京羽二重大全』にみるようにその勢力を広げつつあった。一種のソサエティのような画壇化を背景に,画人が社会的地位を備えてきた時期といえよう。その画人に,俳人たちが挿絵を求めるようになったのも自然な成り行きであろう。これは俳壇同様の活動形態をみせる狂歌サークルと画人の結びつきにおいてもいえよう。ともかく,本画と賛の関係に対し,絵入り俳書における,絵画と俳譜の関係はそれとは異なる。そこでの絵画は,画面の大小にかかわらず挿絵的なものであるから,俳詰のイメージを伝達するメディアとしての役割が大きかったのは当然であろう。即ち,俳人自らによる俳画の代りともいえ,必然的に俳味に見合った表現で措くことが要求される。-403-

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