鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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しミ。そこにおいて,写生画系の一部の画人にこの仕事が集中していることは注意すべきであろう。例えば,名所図会では,版本の専門画工が主軸となって作画を担当し,土佐・鶴沢派系および写生画系の画人たちは,ごく一部ずつを担当する傾向をみせる。これは,鳥蹴図を作画する専門性や,画料の問題による画人構成であろう。対して,絵入り俳書では,どちらかといえば新進の,応挙・呉春門下を中心的に用いている。俳書の世界において,彼らの作風が,俳諾の情趣や味わいの表現にかなった絵画スタイルとして認知されたことが窺えると同時に,大家の門人でありながら新規の画域に積極的に手を染めてゆく画人としての原点もここに窺われる。この段階に来て,写生画,とりわけ応挙・呉春門の画法や表現意識にも新たな変容や展開がもたらされ,その結果,より幅広い町衆に支持され,彼らは躍進していったと考えるべきであろう。文化年間に入り,応挙の画法から独自の方向への作風展開を決定づけ,風俗画方面で好評を博することになる山口素絢や渡辺南岳,西村楠亭,そして四条派の作風を完成させてゆく岡本豊彦や松村景文らの仕事は,この表にみるキャリアと密接な関係があるのではないかと推察される。また,岸駒門とされる河村文鳳も,上記の彼らとの寄合描きや版本への参加が多く確認でき,そうした活動を通じて一家の地位を築いていったことがうかがわれる。そのような彼らの仕事は,むしろ江戸の浮世絵師に近いものが含まれるが,それを彼らが行うことで,ブランドものの浮世絵的作品が生まれ,京都の町衆ならではのニーズに応えることになったかもしれない。個人の画譜類を刊行してゆき,メディア展開に意欲をみせていったのも彼らであったことは考慮されるべきであろう。以上,ひとまず,寛政期において気が付いた点のみを述べてみた。文化・文政期についても考察すべき点は多々あるが,それらは後考に期したい。さて,表を記載するにあたって,以下に,各表ごとの参照資料を列記した。資料名の頭にある記号は,資料内容の分類を示す。なお,〔表l〕の序列については前述したが,〔表2〕と〔表3〕に登載される画人と序列は,紙数の都合もあり,〔表2〕が『平安人物志』文化10年版,〔表3〕が同文政5年版をベースとした規模と序列にとどめている。実際は,これよりも多くの画人名が資料には確認できているのはいうまでもな-404

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