は1913年に日本を離れて以降16年ぶりの帰国で,日本での初めての個展開催を目的と1929年が,藤田の活動,精神基盤をパリから日本へ転じる転換点として両時代をつなの前半に本画制作というスケジ、ユールで,制作時間の大半を日本館の壁画,中でも人物の群像表現を目指した〈欧人日本へ渡来の図〉に当てていたことが推測できる。現在確認できる範囲では,この約二年間の日本館関連以外の作品数は,注文による肖像画を含めてもそれ以前に比べてかなり少ない。こうした事実は,想像以上に藤田が大作〈欧人日本へ渡来の図〉に力を注ぎ,これが相当の野心作,自信作であったことを物語っている。日本的な要素の加味は日本館側からの注文であったが,人物の群像表現はこの時期の画家自身の意思であり,その絶好の機会として取り組んだのであろう。既に述べたとおり,二壁画の制作を終えた藤田は1929年9月に日本に旅立つ。それしていた。長年納めずにいた所得税として一挙に80万フランの支払いをパリ市から請求され,緊急にまとまった金銭を用意する必要に迫られたためというが(注16),壁画の報酬では賄いきれなかったのか。藤田には,当時のフランス画家にとっての北米,南米のごとく,日本は容易に稼ぎうる場だ、ったのであろう。同年10月上旬に東京で開いた個展では51点の裸体デッサンを展示,完売し,藤田のデッサン力を国内で示す恰好の機会となる。この一大デモンストレーションは,藤田に多額の売上金と日本での名声をもたらし,それまで1922年,24年の帝展に彼が出品した〈私の部屋,目覚まし時計のある静物}(1921) {私の部屋,アコーデオンのある静物}(1922)' (ともにパリ国立近代美術館蔵)によって日本に定着していた「日本画の模倣者jとの藤田観(注17)を急速に払拭,かわって「当代フランス美術の伝導者」という新たなイメージを植えつけることになる。だが,そうした日本での名声とは裏腹に,1920年代前半に発揮され,パリで評価された,日本の美学と日本画の技術に裏打ちされた油彩画という彼の独創性を失っていく。そしてそれは,パリにおいては凡庸なー画家に転落する危険をはらんでいたのである。これまでこの画家は,1920年代前半にパリで描いた静誼な裸婦はエコール・ド・パリの文脈で,第二次世界大戦中の日本で描いた「戦争記録画jは日本の近代美術史の中で,分断されて研究されることが多かったが,本研究で得た,二壁画の制作を含むぐという視座を持って,今後の研究を進めていきたい。-32 -
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