鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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とは,岸駒の号の一つである天開翁からとったものと見ることもできょう。また,「紫Jは文化7年(1810)が初出で文久3年(1863)までつづくが,「天」を岸駒と推定したように一人の人間とするならば,この聞を生きた岸派の人では,岸岱がもっとも適当である。所図者に卓堂(岸岱)の号を記すものがあり,岸岱の号のひとつ紫水からとられた「紫Jの符丁ではなかろうか。短尺の貼付者が,いかなる根拠に基づいて原画の筆者を比定したのかは定かではないが,今は一つの推定として「天Jを岸駒「紫」を岸岱と考えておきたい。とすれば,この資料の中心的部分は,岸駒と岸岱の作画を模写したものであるということになる。〈「草稿」に分類されるもの〉「草稿」に分類される資料は,全体の7%ほどでしかなく,ほとんどが天保以降の岸岱画と思われる。試行錯誤の跡と訂正がみられるラフな絵が多いが,紙継ぎをしてまで大きなす法の料紙を用意して一図のみを描いていおり(裏面表題に三尺と書かれるものに約90cmの料紙を用意している例もある),完成画に近い寸法で描かれていると考えられることや,発注者が記されるものも多く,完成画としての用途も決まっており,完成画に近い下図を作成するための構想画的なものと思われる。ここに分類される資料は橋紙を使用するものはほとんど無く,唐紙か画筆を用いている。唐紙や画筆は楕紙と比べると大きな画面を一枚でとることができ,表面処理もなしで描けることから透写の必要がない「草稿」に用いられたのであろうか。そのなか,双鶴図(202)(以下()内の数字は付表の番号をしめす)は,唐紙3枚継ぎの大きな画面に墨線のラフな輪郭線のみで二羽の鶴が描かれる。二羽の鶴は,かすれたような炭の跡がみられるが,あるいは,塁線を入れる前に,木炭,当時でいうところの「柳炭」つまり焼筆であたりをつけたのかもしれない。また,仔細に観察すると,輪郭線の中や周辺に骨筆のようなもので意識的につけられた圧痕が見られ,念紙のような技法により本画あるいはより完成度の高い下絵にあたりを付けた痕跡とも考えられる。岸駒の揮童日記(注5)をみると本画を描く前に「柳炭J,この後に「骨書」をしているが,ここでは念紙の使用は記されていない。ほかの「草稿jではこのような痕跡は認められなかったが,「草稿」の用途を明確にする資料といえよう。なお「草稿Jには模写者はなく,本人のオリジナルで模本ではないと思われる。-422-

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