ら21歳に相当する。岸岱と岸慶の聞はすこし年が空くが,その後は,岸誠・岸慎が幕歳丑四月」・「天保十三年壬寅孟冬摸jであることから,模写作業は,本画が完成後,おそらく時期をおかずしておこなわれたものと推測される。表題の文字データ記入も模写作業とほぼ同時で,模写者がおこない,岸派内に逐次蓄積されてきたものと思われるが,この点は今後詳しく検討したい。〈[所図」のこと〉「時頭館先生所図J「可観堂所図J「天開翁所図」「卓堂所図j「大人所図」「先生所図J「家大主人所図」「先生所製」などと記載される部分である。模写者とは別に記され,表面の款記の写しに「雅楽助岸駒」となっているものの表題には「時頭館所図j,「岸駒写」となっているものは「賭頭館先生所図」とするので,完成画の筆者と考えられる。虎頭館・可観堂・天開翁は岸駒,卓堂は岸岱とみて良いが,最も記載の多い「先生Jを誰に比定するかは時代により判断が困難なものもある。岸岱画とはっきりするものの初出は,岸岱26歳,文化七年(1810)の虎図であるが,文化6年の金沢城障壁画制作にあたっては,金沢に留まってこれにあたったというから,もう少し早い時期から岸岱が本画制作を担当しても良いように思われるが,確証ある岸岱画の模写はない。ここで参考となるのは,先にも触れた短尺書き込みで,「紫」のものを岸岱画とすれば,文政12年・天保2年に1件,天保4年に2件,天保9年に2件存在し,天保11年から文久3年まではすべて「紫」となっている。文化・文政・天保期は岸岱・岸駒の作画が重なりあう時期であるはずだが,この絵画資料の上では,岸駒画の方が卓越しているようである。〈模写者〉「卓堂摸」「台岳摸」など記載の部分は,当該模写本の作成者と考えられる。表題記載があるもののうちの約4割に模写者の記入がある。履歴不明の筆者も多いが,模写者の約7割,110件あまりを岸派宗家筋の岸岱・岸慶・岸誠がしめ,わずかに,分家筋の十しと慎の名もみえる。模写の時期は,岸岱が寛政11年(1799)〜文化2年(1805),岸慶が文政10年(1827)〜天保12年(1841),岸誠が天保15年(1844)〜安政2年(1855),岸札が天保4年(1833)に1件,岸慎が安政5年(1858)〜文久2年(1862)にわたり,この時期は岸岱の15歳から21歳,岸慶の17歳から31歳,岸誠の17歳から28歳,岸札の18歳,岸慎の17歳か末頃までうまく繋いでいる。本絵画資料の中心をしめる模本類の制作は,家を継ぐべ425
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