鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(2) 岸派の絵画資料には,本資料のほかにも,注lにあげた山中東江絵画資料や『京(3) 〜蔵という表現は注2にあげた関連資料にも見られる。磐山蔵・東江蔵・連山蔵・(4) 短尺中には「紫雑三拾六共弐欠壱」などと書くものもあり,すでに,短尺を貼付(5) 岸駒の揮呈日記富山美術館図録『岸駒』1987年に掲載。「七日O尺弐寸巾絹本ニ(6) 所蔵も「関白殿下御物jとなっている。当時の関白は鷹司政照でその後も弘化二小池曲江没後150年記念の会実行委員会『小池曲江の絵画J1997年京都文化博物館『京の絵師は百花婿乱J1998年フェルケール博物館『京都岸派と庵原三山』1999年都岸派と庵原三山』に掲載する連山関連の資料が知られる。また栗東歴史民俗博物館の明珍健三氏のご教示によると岸家の分家筋にあたる岸大路家にも相当数の資料が蔵されるとのことである。ほかに,伝来は不明ながら,昭和61年には古書入札会を通じて,かなりの量の粉本類が巷聞にでている。謙山蔵などの記載がみられ,資料の所有をあらわしていると考えてよいとおもわれる。粉本の伝播は岸派の地方普及にも大きな力となったのであろう。して整理する時点で,共のものに欠が生じていたりしたことを伺わせる。また,岸大路家本にも同じような短尺が貼付されているとのことである。岩上松二時柳炭O骨書淡彩(中略)八日O右席落成jなどと記している。また『画室』に「焼筆にて下絵を軽く描て格好を見合せ,好は又委く付て,羽にて少々掃落して墨にて書べし,描終て后羽にて能はくべし」とあるのが参考になる。年乙巳初夏に「鷹司殿御用」があるので,あるいは鷹司家へ納めた別図か。-427-

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