鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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③ 1910年代における思地孝四郎の「拝情Jをめぐって一一未来社の活動と『月映』一一研究者:筑波大学大学院芸術学研究科博士課程桑原規子はじめに版画家として,また日本における抽象表現の先駆者として知られる恩地孝四郎は,1914年から15年にかけて,田中恭吉,藤森静雄とともに詩歌と版画の同人誌『月映jを刊行した。同誌の中で思地が発表した「持情jシリーズは,1954年までの約40年間にわたって制作が続けられた彼の芸術活動の根幹を成すテーマであり,同シリーズの成立過程を追究することは恩地芸術の核となるものを明らかにすることとなる。また,同シリーズには大正初期の美術と文学・音楽との相互関係の問題,日本近代美術における西洋絵画受容の問題,油彩画や日本画など社会的位置づけの確立した正統的美術と社会的評価の低い出版に関わる美術との格差の問題など,大正期の美術全体に関わる広範な問題が含み込まれている(注1)。このような『月映』が内包する様々な問題に関しては,現在まで藤井久栄氏,田中清光氏,和田浩一氏等によって考察が行われてきたし,とりわけ「行情jシリーズの一点〈行情『あかるい時j}については藤井氏および浅野徹氏によって日本における最初期の抽象絵画という位置づけが成された(注2)。筆者自身も,1984年に提出した修士論文「『月映』研究」(注3)および「1910年代における思地孝四郎の『持情』一一」で『月映Jと「持情」に関する一通りの考察は行っ竹久夢二との関連を中心にたのであるが,その調査の段階で新たなる視点を追加する必要性を感じた。それは,三木露風を中心とする未来社の活動が『月映』および恩地の「好情」シリーズに与えた影響についてである。筆者は,小論「『月映』研究」の「象徴詩と版画」という項目で三木露風の象徴詩が『月映』に与えた影響について指摘はしたが,問題提起の段階に留まっていた。その後恩地と田中恭吉の日記(いずれも未公刊)を通読する機会を得て調査を進めてみると,『月映』同人が受けた影響は,三木露風個人というより露風を含む未来社の活動全体からではないかという疑問が浮上した。三木露風・川路柳虹・柳津健・山田耕符・斎藤佳三など未来社同人と恩地が文学・音楽・美術の相互交流を具体的に行うのは,1920年代,恩地が露風や山田の書籍および楽譜の装頼を数多く担当するようになってから-35-

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