l,明初「官窯」問題と密接にかかわる資料a,南京洪武宮土l上出土品〔図2〜4〕きんげんの1片〕がある。しかしこれら以外にも,興味深いものがいくつか見られた。型押し1964年,南京博物院が南京明故宮祉の調査が行なわれた際,その塀を廻る玉滞河の川底から千点以上もの陶磁器の破片が発見された。明初より時代の降るもの,民窯製品も相当数混入していたが,洪武期の作例と見られる磁片も含まれていた。報告者によると,元時代以前の遺物はまったく見られなかったという(注4)。洪武様式の作品としては,柚裏紅の破片で,大鉢の底部分と見られるもの〔図2・左右写真の上の1片〕や,来由裏紅の碗破片で白抜きで花文様が表されているもの〔図3・左右写真左下で龍,鳳風を表し,そこに紅粕を施した屋根瓦といった建築用材,白磁に紅彩で五爪の龍と雲丈を描いた盤〔図4〕,および龍文を印花(型押し)で表し,それに青花も用いた盤〔図2・左右写真の左の1片〕などである。五爪の龍という文様から,これらが「欽限委器」と呼ばれる皇帝使用の特別な磁器であったと推測される。とくに図4の盤は上絵付の紅彩技法としては極めて早期の,大変珍しい作例である。洪武宮は洪武3年ごろ造営が完了し,靖難の変により,建文4年(1402)に宮殿が焼失するまで存続した。この遺構の性格が示すとおり,これらは宮廷使用の官窯製品であるが,その中でも龍文を表わすものは,皇帝かその周囲の身分のある人々が使用した特別のランクの製品と考えられる。そして洪武帝の南京を首都とした治世には,洪武様式の青花・柚裏紅磁器とともに,それより格の高い磁器製品が存在していたことが知られる。洪武様式の作品群は朝貢貿易によって海外諸国へ下賜される場合があり,おそらくはそのために,龍や鳳風といった身分の高い者を象徴する文様が描かれていないのであろう。b,北京市第四中学(明代内府庫遺杜)出土資料〔図5〕1983年,北京市第四中学の工事の際に,地中から数千件もの洪武様式の青花・粕裏紅磁器の破片が出土した。その場所は元時代は都城の興盛宮の后苑であり,明〜清時代は,宮廷用の倉庫があった場所であるとされる(注5)。北京宮廷の西十庫のうち,最初の庫房が建てられたのが洪武17年(1384)であり,永楽帝が北京に選都したのが永楽19年(1421)であること,また使用された痕跡が見られないことから,報告者はこれらの出土磁器が,洪武17年以降,永楽19年の遷都以前まで,この場所に保管されていたものであろうとする。使用されないまま放置された理由としては,コバルトの449-
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