のことであるが,その前段階として1910年代初頭から思地を含む『月映』同人が露風や山田らの文学および音楽から強い刺激を受け,版画を制作していた可能性が高い。そこで本助成研究では,まず未来社と『月映』との関わりについて本調査で判明した事実について述べ,その上で未来社の中心人物三木露風の象徴詩と版画,山田耕俸の音楽と思地の1910年代の「持情」シリーズとの関係について検討し,恩地の「持情jシリーズ誕生の軌跡とその意義について再検討を行いたい。1 未来社と『月映J未来社は,1913年秋ごろ,当時隆盛を極めていた「自然主義的風潮に懐らない象徴芸術の愛好者」,詩と音楽とを熱愛する人々によって設立された団体であり(注4)'同人には三木露風・川路柳虹・柳津健・山宮允・西条八十・服部嘉香・山田耕符ら,準同人には斎藤佳三や田中喜作ら多彩な顔ぶれが並んでいた(注5)。その主な活動は,同人の集まり(「小集」)を定期的に行い,制作上の刺激を互いに与え合うこと,詩の季刊雑誌『未来Jを刊行すること,19日年12月にドイツから帰国した山田耕搾の音楽会を開催すること等であった。雑誌『未来』は1914年2月に創刊され,露風の詩集『白き手の猟人Jゃ『露風集』の出版元である東雲堂書店から発行された〔図1〕。その創刊号の巻頭言には未来社設立の第一の目的が,文学を自然主義の狭い枠内から解放することであることが次のような言葉で述べられている。「『未来』は在来の自然主義が我等を却って或狭き限定内に置き,我等の精神が自由且つ自然に向はんとする方向を遮りたるに反し,此桂桔中より吾人の精神を取返し吾人の思考吾人の生活をして更に増大せしめんとする目的を有す。」(注6)未来社の中心人物であり同誌の編集人三木露風は1909年5月『早稲田文学』に口語自由詩「暗い扉」を発表した後,9月に詩集『廃園』を,その翌年に詩集『寂しき曙』を出版し,象徴主義を標梼する詩人として,また北原白秋と並称される新進気鋭の詩人として詩壇で認められていた。露風の筆と推測されるこの「題言jに「象徴Jという言葉は見出せないものの,創刊号に掲載されている山宮允訳「詩歌の象徴(イエーツ)」,柳津健訳「酔ひどれの舟(ラムボウ)」等の翻訳から推察するに,同誌発刊の目的が象徴主義の進展を目指すことであったことは間違いない(注7)。このほか,創刊号には前掲の同人たちの詩,評論,戯曲,劇詩,小説,曲譜などが掲載されてい36
元のページ ../index.html#46