鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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鮮やかな永楽様式の青花磁器が遷都後登場してきたことをあげている。顔料の発色の悪い洪武様式の作品は見劣りしたため,そのまま放置されてしまったとするのである。しかしその後,1998年に出された別の論文で,同報告者は,磁片の出土した西十庫は洪武12年(1379)11月に竣工されたとし,ここから永楽様式の作品も出土していたことを明らかにした。さらに大量の磁器が破損したのは,文献に記される永楽元年(1403)もしくは永楽団年(1420)に北京で起きた地震に原因があるとの新たな説を呈示した。そして良質のコバルト顔料による永楽青花磁器が出土していることから,鄭和大艦隊第一陣の帰還(1407)後,つまり再び西方から良質のコバルトがもたらされるようになった後に起きた永楽団年の地震が,この遺構の下限に相当するとしている(注6)。c' 1994年発掘の景徳鎮出土資料る地域が発掘された。発掘面積は360m2で,そこから近代層から宋代層までの遺品が出土した。1998年の台湾台北市鴻喜美術館における展覧会で公開された出土遺品は,明時代初期,j共武〜永楽の磁器(洪武33件,永楽48件)であった。出土磁片の大筋の傾向はつかめるものの,残念ながら全体のごく一部の公開であったため,不明な点も残る(注7)。洪武期に相当するとされる出土品で,新知見となったのは,まずこれまで伝世品に見られなかった器種,杯(托に載る大きさのもの,〔図6〕),口部が端反りとなった大鉢〔図7〕,口部が広がり,小さな高台をもっ鉢〔図8〕などの器種の出土があげられる(〔表2〕参照)。またこれまで知られた伝世品の作例数の比率とは逆に,この遺構においては,青花磁器の出土遺品の方が柑裏紅磁器のそれよりかなり多かったことが報告された。洪武年間は元や永楽年間と異なり,西方諸国との交流が活発ではなかったという政治的背景から,従来の学説では西方からのコバルト輸入が不足し,そのため銅を呈色剤として代用した粕裏紅磁器が,青花と同様の意匠で多く焼成されたと考えられてきた。伝世品(ほぼ完形品。出土品も含む)に関して,筆者の現時点での作品収集データでは,総数181,点のうち,洪武様式の青花:粕裏紅の作例比は,49:132で紬裏紅の割合がかなり多い。しかし,劉新園氏のこの度の出土品の比率においては,青花磁器の数が大幅に上回ったという。氏は,出土した洪武様式の青花磁器にコバルトの発色に優れたものが多いのは,元時代から蓄えがあったものを引き続き用いたからと説明している。このほか,劉氏は①官窯の設置は,洪武2年(1369)である可能性が高く,1994年の6月〜8月にかけて,景徳鎮珠山近く,明代御器廠(官窯)の東院とされ450

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