鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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に加えたことによって,洪武様式の磁器生産と「官窯j的統制の関わりについて,より強く認識されるに到った。c,皇帝の磁器明が建国されると間もなく洪武帝が朝貢貿易政策による海禁政策をとったため,景徳鎮の磁器焼成を司る役所や陶工たちは,一大転換を迫られることとなった。それまで主としてイスラムなど西方諸国への輸出用としてある程度は自由に作られていたものが,おそらくは専ら宮廷の命令に従って作品を焼成しなくてはならないような状況へと変化した。それに従い洪武帝や明政府の意向を順守した,元時代とは異なる,新たな漢民族王朝にふさわしい図案が考え出され,それが規格通りに製作された,各器形の決められた場所に注意深く描かれるようになったと考えられる。元から継承された輸入コバルトを用い,さらには原料が逼迫してくると青花磁器の代わりに,それと遜色ない柚裏紅の優品を何とか多く作り上げようとした洪武期の磁器製作の背景が,数少ない遺品から見て取れるのである。ではなぜ永楽期に入ると,再び動物文や西方的な葡萄などの文様が出現する(戻ってくる)ようになるかといえば,それは永楽帝の即位によって,洪武期とは異なる政治的変革(つまりは,積極的な西方文化の摂取)が行なわれたことと密接に関係するに違いない。永楽様式の作品では,主文様のモチーフが再び自由に選択されるようになったばかりでなく,その絵付けにおいても図案的なものからより絵画的なものが追求され,余白も多くとられるなどの変化が見て取れる。洪武様式の遺風は,副次的文様においてさえ殆ど残ることがなかった。明時代に入ると景徳鎮の磁器は正式な官窯製品となったが,それは皇帝が文様の細部に到るまで、神経を使ったことに起因するのであろう。明以降の歴代皇帝にとって,官窯磁器は自らの力を誇示するものでもあり,その品質のみならず,意匠なども重要な意味を持つものであったと推察される。3,明初景徳鎮「官窯j設置時期洪武様式の作品は,従来に見られないほど強い規制を受けていた。このことは,洪武様式の青花・紬裏紅磁器が製作された当初から「官窯jが存在していた可能性が高いことを示している。未だ景徳鎮から官営工場祉のような具体的遺構は発見されていないが,そのような生産体制,機構があったことは,これまでの研究からも明らかである。劉新園氏は文献資料の考証とともに,1994年の発掘調査で制作者銘のある瓦及452-

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