.,, Qo この季刊雑誌『未来Jは,残念ながら1914年6月に第2号を発行したのち廃刊となづてしまったが(第一次『未来j),翌年には露風を発行人とする月刊同人誌として再出発し(第二次『未来』)2冊を刊行,さらに1917年1月から12月までの聞に11冊(第三次『未来』)が刊行された。未来社のもう一つの重要な活動は,『未来』創刊直前の1914年1月にドイツから帰国した山田耕搾の音楽会を開催することであった。山田がどの時点で未来社の同人に加わったか定かではないが,実質的には山田が帰朝後,新橋の駅で露風に迎えられ初対面した1914年l月以降であったと考えられる。ただし,山田はドイツ留学中から露風の詩集『廃園Jを愛読し,詩集所収の詩「異国」ゃ「燕」等をもとに歌曲を制作していたし,山田と露風の仲介役を果たした斎藤佳三も,渡独する前から露風と交流し『廃園』所収の詩「ふるさとのjをもとに作曲していた。したがって,未来社の情報がドイツに居る二人のもとに届いていた可能性は充分にあったし,また一方,未来社同人もドイツにおける山田と斎藤の動向には注目しつつ行動を起こしていた可能性がある(注8)。象徴主義を押し進めようとしていた未来社にとって,ドイツで新興音楽を学んできた山田の帰国,参加は非常に大きな意味を持つものであった。1914年2月『未来J創刊号刊行,同年2月21日未来社主催音楽会「山田アーベントj開催(於築地精養軒)と,まるで山田の帰国を待っていたかのように未来社の活動が開始された感がある。『未来J創刊号巻末には既にこの音楽会の広告が掲載されており〔図2〕,山田の帰朝千去すぐに開催が決定されたことを示している。また,同誌には付録として山田の曲譜「すすりなくとき」が掲載されてもいる。このように,山田の参加によって『未来』は単なる詩歌を中心とする文学雑誌ではなく,文学と音楽の相互交流を目指す総合芸術雑誌としてのd性格を備えることができたわけであり,未来社同人たちが山田に寄せた期待は想像以上に大きかったと思われる。さて,それではこのような特徴を持つ未来社と恩地たちはどのような接点を持ったのであろうか。筆者が『月映』について調査・研究する過程で,特に未来社に注目することとなったのにはいくつかの理由がある。まず第一に,『月映』の詩歌と版画の雑誌という性格からも察せられるように,『月映』同人がいずれも詩歌に強い関心を寄せていたという-37-
元のページ ../index.html#47