⑧ 石田幽汀の研究カfある。研究者:京都府京都文化博物館学芸員野口十八世紀,京都画壇は内容的・構造的に劇的に変化した。主に世紀の後半におけるその変化は多数の個性豊かな画家によって体現されたが,なおそこから,表現における革新性や影響力の大きさといった点でとくに重要な一人を選ぶとすれば円山応挙となろう。石田幽汀(1721〜86)は,この大画家の師として近世絵画史に名をとどめている。とは言え,幽汀がマイナーな画家であることに変わりない。そんな画家を取り上げる理由は何か。第一に,狩野派が近世絵画史を日向と日陰双方で支えたことが常識となり,各地でその探求が進んでいる一方,京都のそれに関しては,佐々木丞平氏の企画になる展覧会とその図録『江戸期の京画壇一鶴沢派を中心に−j (注1)をはじめ,重要な業績が積まれつつも依然として未知の部分が少なくなく,調査・研究が求められていること。第二に,後にも述べるとおり,幽汀の作品には当代の京都の狩野派の画家たちが有していた画風的な問題が集約的に見出せるということである。幽汀研究の試みは一人のマイナーな画家に関する研究ということ以上の広がりを見せる可能性本報告ではまず,幽汀の伝記・作画環境・現存作品等の基本事項の整理を行う。次いで幽汀の属していた近世京都の狩野派系の画家たちを概観し,その後,代表的な幽汀作品に対して分析を加える。石田幽汀。名は守直。また蟻集堂,彰施堂の堂号のあったことが使用印からわかる。生没年は菩提寺である休務寺所在の墓碑による。出生地については,土居次義氏による石田家の過去帳の調査によってそれまで通説とされていた京都出身が改められ,播磨明石の橘家に生まれ,後に京都の町年寄であった石田半右衛門の養子となった事実が明かにされた(注2)。白井華陽『画乗要略Jはじめ諸書が伝えるとおり,上京した幽汀はやがて鶴沢探鯨に画を学ぶことになる。幽汀は法橋,さらには法眼に叙され,また現存作例のほとんどがいずれかの僧綱位を有しているが,各々の叙任の時期は不明である。管見の限り,明和四年(1767)に安井金比羅宮に奉納された「牛若丸弁慶図絵馬」に,筆者の江村春甫が「法橋幽汀門人江村春甫」と署名すること,『京羽二重大全』天明四年(1784)版に「画師法眼石剛-460-
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