田幽汀jの記載が見られることから,それぞれの叙任時期の下限が示唆されるにとどまる。そもそも,幽汀の具体的な活動ぶりを伝える史料は多くない。主要な活躍の場であったはずの近世の公家や寺院の記録類の公刊が少ないことがその一因である。その中で,宮島新一氏のあげられた,寛政元年(1789)から翌年にかけて行われた内裏造営の際の画家の願書をまとめた「絵師書上J(新日吉神社蔵)中の子・友汀の略伝に「親幽汀之儀者明和四年当女院(桃園院の女御富子)御所御造営之節始御用被仰付其後毎之臨時御用被仰付jとあり禁裏の扉風類の記録「天明六年改御扉風目録Jには「源氏jや「百花Jを描いた扉風や「鵜川」を描いた衝立が見え(注3),宮廷をめぐる絵画制作が文献的に確認されるが,現在のところ幽汀の活動は現存する作品によってうかがうしかない。現時点で存在が判明している幽汀作品は〔表l〕のとおりである。生家・橘家の菩提寺である明石の薬師院や,養家・石田家の菩提寺である休務寺が所属する浄土宗西山派の本山である長岡京の光明寺を別にすれば,当然のことながら洛中に多い。もとより判明する範囲内であるが,聖護院や三時知恩寺,宝鏡寺など門跡寺院の割合が多い点も特筆に値しよう。そもそも,幽汀の連なる狩野派は京都においていかなる広がりを見せたのか。幽汀を含む近世京都で活躍した狩野派系の画家,およびそれに学んだ画家を師承に基づく系図のかたちで示す(注4)〔表2〕。もちろん著名な画家にはこの他にも多数の門弟があり,その名前の判明する者も少なくないが,それらを網羅することに少なくとも現段階でさほど意味があるとは思えないので割愛する。ただ,現在は忘れられていても当時一定の評価を得ていたと考えられる画家は極力ここに含め,また師承が必ずしも確実でないケースも暫定的に取り込んだが,盛り込むべきと思われる画家でやむなく漏らした場合も若干ある(注5)。以下,紙数の許す範囲で補記しながら,近世中期から幕末にかけての京都の狩野派を概観する。幽汀が画を学んだ鶴沢派は江戸狩野の京都支部とも言うべき流派である。探幽の高弟であった鶴沢探山(江戸在住期は探J11と号す)が元禄年間に禁裏御用にあたるため京都に派遣されたのが江戸狩野から独立したかたちでの流派形成の端緒であるが,鶴沢派が多数の門弟を抱えはじめたのは幽汀も弟子入りした探鯨以降のことである。-461-
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