取り入れたやまと絵的な手法をさらに押し進めるという明確な方向性を持っていると見なせる。幽汀の作品の中で聖護院所蔵作品以上にある意味で重視されてきたのが,三時知思寺に所蔵される「四季花井図扉風」である(注10)。その理由は何より,本作品に見出される写実的な傾向が,徹底した写生を基盤として確立された応挙画風のプロトタイプのーっとして見るのに適しているためである。もちろん,その見方に間違いなかろう。が,それでは幽汀自身にとって本作品はいかに位置づけられるか。それについては,近年,西本周子氏によって紹介された先述の山本家四代・宗川の二点の「百花図扉風」(注11)などとともに考える必要がある。幽汀も敦盛草や熊谷草など比較的珍しい植物を描くが,宗川の描く植物はより多彩でかつ描写はより般密のようである。と同時に,狩野派らしい濃墨による輪郭線と厚い賦彩という点では互いによく似ている。幽汀においてはまだ,京都での本草学ブームの拠点となった近衛家への通路が見出されている宗川のように画風獲得の背景は明瞭でないが,少なくとも狩野画風内部でのそれ以前の試みを承けていることは予測可能である。またその上で,宗川の草花が光琳由来の画面構成とあいまって基本的にはスタティックな姿態を示すのに対し,幽汀の場合,右隻右端の牡丹が風に煽られているところから始まり,右隻全体を通じて個々のモティーフに動感が感じられ,またその構成法に関しでもその先例をただちに想定することを困難に感じさせる自由さがある。他方左隻では,屈曲しながら伸張する梅樹の形態に京狩野風の名残も看取され,それと右隻との取り合わせは,江戸狩野に通有の花鳥主題の扉風の様態からさらに誰離する。法眼落款を有する「須磨図扉風Jの安定した画風と比較するときのこの先鋭さ,ある意味での危うさこそ,幽汀の法橋時代の作例としての本作品の存在意義を物語つているように思える。上記以外の作例についても見ておく。幽汀には扉風作例として二点の「群鶴図扉風Jの存在が知られる。扉風に大写しされた群鶴図は師の探鯨,弟子の応挙,子の友汀にもあるが,これらと比較しても幽汀作品の鶴の数と種類は多い。ソデグロヅルなどの珍らしい種を加えつつ,伝統的に描きつがれてきた様々な鶴の姿態を尽くそうとするかのような画面には,博物学的な興味とともにマニエリスティックな執劫さも感じられ,幽汀の資質の一つを示すと考えられる。一方,近年まで京都にあり,最近大英博物館の所蔵となった「渓流に鹿図扉風」は現存作例を見る限り水墨作品の少ない幽-464
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