鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(1) 京都大学文学部博物館,1996年。鶴沢派正系ならびに石田家代々の作品が多数紹(3) 宮島新一「画流の形成と継承一円山・四条派と原・岸派」『日本扉風絵集成』第(4) 本系図作成には『画乗要略』ほかの画伝類,既述の「絵師書上」中の各画家の略(5) 系図からもれた狩野姓の画家として狩野正栄,ないしは正英がいる。正栄の名前汀において,洛東遺芳館所蔵の「雲龍図」などとともに貴重な遺例である。また,資料的に興味をひかれるのが弄石家・木内石亭の「百石図巻jへの揮牽である。現在は草津市の西遊寺に模本が伝わるのみであり,そもそも考古遺物の図譜であるので画風の分析には向かないが,ここで注目したいのは本作品が複数の画家による寄合描きの体裁によることであり,そこに幽汀,応挙,琢舟,元陳らが含まれることである。アカデミズム系の画家が関与した比較的早い時期の寄合描きと言え,当代の鶴沢派研究にも資するものと思われる。幽汀は応挙の師であったが,実は両者の生年は十二年,没年になると九年の隔たりしかない。つまり幽汀は応挙の登場とその活躍に象徴される変化とともにあった。そうした時流の中で,幽汀は自らの属する狩野派ないしは鶴沢派の画風的な課題に対し固有の方法で解答を示そうとしていたかに見える。かつて小林忠氏が渡辺始興に関して言われた「美術史的存在」という標語は幽汀という画家に関して一層相応しいのかもしれない。介された。(2) 土居次義「石田幽汀考」『茶道雑誌』第28巻第12号,1964年8巻,講談社,1978年歴,ならびに次の文献における小寄普通氏論文ならびに解説を参照した。『近世の京都画壇J(京都市文化財保護課,1992年),『京の絵師は百花練乱一『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇−J (京都文化博物館,1998年)。なお「絵師書上」の写真と翻刻も小寄氏より提供を受けた。また作品の検索には,『京都の江戸時代障壁画J(京都府文化財保護基金,1978年),『京都の美術工芸』(京都府文化財保護基金,1983年)を利用したことを特記しておく。は『京羽二重大全』永享二年(1745),明和五年(1768),天明四年(1784)版,『妙法院日次記j宝暦六年(1756)八月十日条,さらに『仏光寺御日記J天明九年465

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