鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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年(1789)「絵師書上」によると,その時点で正栄を名乗る画家は三代に及ぶ。一(6)勝山家系図のうち琢道は同時代の文献からはその存在が知られないが,唯一,京(7) ちなみに宗川の遺作としては西本・泉両氏の紹介されたもののほかに聖護院に(9)拙稿「聖護院蔵石田幽汀筆〈須磨之図〉扉風の主題と構図J京都文化博物館研究正月三日,同人月晦日,寛政二年十二月廿九日の各条に見え,また既述の寛政元方の正英の名は『平安人物志J文政五年(1822)版と同十三年版に記され,また作例として文政元年の年紀を持つ京都府立総合資料館蔵「京洛三十六家画帖」中に写生画派の影響を受けた花鳥画の小品がある。都府立総合資料館所蔵吉川観方コレクション中に琢道像とされる作品がある。像主の根拠は画面上部に付された大綱の賛であり,それによると琢道が琢舟の子で琢眼の弟にあたること,天保十五年七月二一日に六七歳で没したこと,また本肖像が子・琢知によって描かれたことなどが知れる。秋草を描いた衝立が伝存する。(8)五代・永伯の「松竹梅に鶴図扉風」(大分市美術館),八代・永俊の「楼閣山水図扉風」(聖護院)など。紀要『朱雀J第10集,1998年同本作品については,土居次義「石田幽汀の二画蹟」『美と工芸』第198号,1973年,および宮島氏前掲論文を参照。帥西本周子「山本素軒筆四季花鳥図扉風・山本宗川筆百花園扉風J『国華』第116(}号,1992年ならびに同氏「新出の山本宗川筆「百花図扉風JJ『国華』第1230号,1998年466

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