鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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。。こと,とりわけ「白露の時代jと呼ばれていた当時,彼らの興味が北原白秋と露風の象徴詩に集中していたということである。実際,彼らの往復書簡や日記には白秋の名や詩集のことが登場するとともに,露風の詩集『廃園』の名前や同詩集所収の「ふるさとの」の抜き書き,白秋と露風の合著として刊行された「勿忘草」(『朱築(ザンボア).!2巻6号)の事などが記されている(注9)。第三に,『月映』同人が雑誌『未来』に注目し愛読していた証として,『未来』1915年1月号(2巻l号)の寄贈図書欄に『月映』2号,3号の名が,1915年2月号(2 巻2号)に『月映』4号の名があり,恩地たちが自分たちの同人誌を未来社に贈呈していたという事実がある(注10)。露風は19日年2月号に次号で寄贈図書の喜評を書くと予告していたので,これが実現すれば露風と恩地達の関係も少しは明らかになったのであるが,残念ながら同号で第二次『未来』が中断したため『月映』に対する露風の見解は分からずじまいになってしまった。第三の理由として,未来社同人と『月映』同人との人的交流を挙げることができる。1911年4月に東京美術学校日本画科予備科に入学した『月映』同人,田中恭吉は,美術ばかりでなく文学,音楽にも幅広い興味も持っていた学生で,東京美術学校交友会の文学部と音楽部の両方に参加し活動していた(注11)。当時,音楽部にはドイツに留学する前の斎藤佳三が参加してピアノ演奏や独唱を行っており,田中は1911年6月3日,10月7日の日記に音楽部の斎藤の名前を記している。また,1911年11月14日の日記には,夜,日本画科上級生であり後に未来社同人となる川路柳虹を訪ね,芸術に関する様々な話を聞いて感激したと書いている。さらに,斎藤が『東京美術学校交友会誌』に詩歌をはじめとする文章を発表し始める1912年になると,田中自身も文学部の中にあった短歌会「鴨町草会jに参加し詩歌を発表するようになる(注12)。この会はのちに黒輝杜柱人会装飾美術協会へと発展することで知られるが,同会には『月映』同人と親しい間柄にあった香山小鳥,堀義二もいたし,J11路柳虹とその友人広川松五郎・高村豊周らも参加していた。このように見てくると,田中が斎藤や川路のことを未来社結成以前から見知っていたことは確実であり,田中を通して彼らの情報が『月映』の仲間たちの聞に伝えられた可能性が高い。また,斎藤と山田耕符が日本に帰国してからは,恩地が1914年の「帰朝のその余り経たぬころ」に三並花弟を通じて赤坂霊南坂に住む山田を訪ねたり,同年12月に帝劇で開催された山田耕搾帰朝演奏会の練習を見に行ったりしたと回想するように(注13),直接的交渉が持たれるようにもな

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