鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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端書がみえることから,本像をめぐる結縁勧進がおよそ建久年間を中心として行なわれたことが知られる。遣迎院像の納入品の特色は,言うまでもなく総数73紙・約l万2000名にのぼる膨大な結縁交名にある。これまでにわが国で確認されている結縁造像の例としては,約4したものとして知られるが,本交名はそれにつぐ大規模な結縁造像の作例といえる。本交名は阿弥陀如来の印写された料紙の紙背に墨書されたもので,現状から想像すると,当初は巻紙に記されたものを,およそ丈29.Scm,幅23.0cm程度に裁断し,全73紙を7つの綴りに分け,それぞれ紙縫で綴じたものと考えられる。当初の納入状況については定かでないが,八葉蓮華寺像など一連の快慶作例のように体部の内割に束状にして納入されたものと思われる。現在知られている快慶作例のうちでは,印仏の紙背にこのような交名を記すものは確認されていないが,八葉蓮華寺像,東大寺金剛力士像などからは印仏が,また岡山・東寿院阿弥陀如来像の像内からは念仏結縁交名が確認されている(注1)。印仏供養の意味について,平安時代の天台僧覚超(960〜1034)の『修善講式』は,逆修あるいは死者追善の供養を目的として摺写するものと説明するが,こうした印仏供養をともなう結縁勧進の形態は奈良・元興寺や法隆寺の聖徳太子像に納められた「万杯供養キL」ゃ結縁交名などの内容にも共通するもので,主に寺院の造営など大規模な勧進事業においてしばしばみられるものである。近年奈良・光瀬寺旧蔵の阿弥陀如来像の納入品からも本像に類似した阿弥陀印仏の紙背に結縁交名を記したものが発見されている。光瀬寺像はその作行から鎌倉時代の初期のものと考えられ,本像との比較研究がf寺たれる作例でもある。本像が組織的な勧進による造像であったことは,この結縁交名の筆写の状況やl万には「南無阿弥陀仏」(重源)ならびに第2代の東大寺勧進職に就いた「栄西」(1141〜1211)の名が確認され,この結縁造像の背景に東大寺復興の勧進集団の存在が知られるところとなった。とくに両者が入宋経験者で,かつ東大寺大勧進職を務め,源頼朝・藤原、兼実・平頼盛一門などをはじめとする共通の檀越を持つ点など,本交名の成万5000名を擁する滋賀・玉桂寺阿弥陀如来像の結縁交名がもっとも多くの結縁者を記3 二つの勧進の系譜一東大寺・高野山系と延暦寺・西山別所系の勧進一2000名にのぼる尼大な結縁者の数からも明らかである。さらに本交名の一紙〔図2〕471

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