鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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めJ(『玉葉』)とするものであった。天台系の聖たちの集団である。その代表的な人物が顕真・湛鞍・印西という人物である。顕真(?〜1192交名②−4)は葉室家の出身で法系は天台座主明雲に連なり,自身も第61代座主をつとめた。本交名に「権僧正顕真jと記された顕真の権僧正叙位は『天台座主記』によると座主に就任した文治6年のことで,本交名への結縁はこれ以降のことになる。顕真の事績の中で本像の造立に関係するものとしては,寿永元年3月から4月にかけて後述する湛鞍と共に京中において如法経の勧進を行なったことがあげられる。その目的は「天下の乱を直さんため,また戦場終命の輩の怨霊を消さんた湛鞍(交名⑤−3)は大原来迎院に住した念仏聖で,とくに貴顕の聞で信仰を集めた。湛鞍の事績としては元暦2年(1185)5月建札門院出家の戒師,また翌6月平宗盛・清宗父子が篠原宿で斬首されるとき善知識として湛戦が招請され,文治4年には九条良通,建久3年3月の後白河法皇の臨終にも立ち合っている。印西(交名⑦−5)は『平家物語jによると平家滅亡後の追善の法会を洛東長楽寺で執行した人物で,守覚法親王の『左記』によると同寺で入水した安徳天皇の御着帯図2遣迎院交名「重源・栄西・誕阿弥陀確認されるところとなった。それは比叡山ある仏(快慶)」部分立の背景を考える上で注目される。重源と栄西の関係は仁安3年(1168)に遡る。この年の4月,博多より出航した栄西は明州(寧波)に上陸するとここですでに入宋していた重源と出会う(『元亨釈書』栄西伝)。その後二人は天台山,阿育王山などを巡礼し(「建仁寺栄西塔銘」),同年9月に同船して帰国したと伝えられる。栄西は帰朝後,天台座主明雲(1113〜85)に天台章疏六十余巻を献上し,また備前・備中を巡錫し,文治3年に再渡宋して帰国後,重源の跡を受けて東大寺大勧進職に就いた(注2)。また,本交名の分析をすすめる過程で,この結縁造像の背後にもう一つの勧進集団の存在がいは大原・西山など京都とその周辺に展開した-472-

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