鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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図3遣迎院交名「平家一を供養したことなどが知られる。印西はその後,建久6年に中宮の安産祈願の修法を源空・湛鞍と共に50日ずつ勤めている。このように湛教や印西の事績をたどるとき,彼らがしばしば処刑や出産などの場に立ち合うなど,死械・血穣・病棟といったいわゆる「触械jの場所(周辺)に現われている事が指摘されるところだが,その職能性の問題は中世の勧進聖のそれに共通するものと考えられる(注3)。4 「結衆」の構図祖霊たちの群像次に本交名の成立事情を検討するにあたり,さまざまな中世の人々による本像への結縁の背景について考えてみたい。まず本交名のー紙には,保元・平治の乱から治承の内乱に関わる源平両氏の物故者の追善を目的とした結縁がみえる〔図3〕。平家一門では経盛・忠度・有盛・行盛・基盛・経正・通盛・維盛・資盛・清経・教盛・宗盛・重盛・重衡・知盛・時盛・時忠らの名が,また源氏では源行家・義仲・義経・頼政などの結縁が確認される。すでに源氏一門の結縁造像例として玉桂寺像や埼玉・天洲寺聖徳太子像などが知られるが,源平両家をめぐる鎮魂と追善の系譜がこれらの交名にみられる「結衆」の目的に連関するものであったことはいうまでもない。『平家物語』によるとその滅亡と前後して平家の怨霊のことが語られはじめ,元暦2年(1185)に京都地方を襲った地震は龍となった清盛の仕業と噂され口伝てに民衆へと広まっていった。さらにこうした中世初期の葬送と追善の儀式は,この争乱と関係の深い高野山を中心として執行されると共に,そうした一連のプロセスは高野聖たちの活動にも反映Lて,都都聞に語りつがれていったものと考えられる。高野山では寿永2年(1183),本交名に結縁した鍵阿弥陀仏の奏請,後白河法皇の院宣により源平戦死者の追善の法会が営まれ,ほほ時期を同じくして高野山には非業の死を遂げた人々の遺骨が相次いで運ばれている。また快慶の作例に納入された交名をみてゆくと,そこにはいくつかの血縁関係を母体とする「結衆」の存在が見られる。なかでも平治の乱で非業の死を遂げた藤原通憲473 門j部分

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