鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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の一門と葉室顕時一門に連なる人々の結縁は,快慶における造像活動の外護者を考える上からも注目され,本交名でも静賢・覚賢・明遍・勝賢など出家した通憲の息子たちが確認される。明遍(1142〜1224)・勝賢(1138〜96)は快慶や重源とも関係が深く,明遍は快慶による作例では奈良・安倍文殊院文殊菩薩像,東大寺僧形八幡神像,八葉蓮華寺像に結縁しているほか,勝賢はみずからが座主をつとめた醍醐寺三宝院弥勅菩薩像の造立を快慶に依頼している。葉室顕時(1134〜67)の一門では息子行隆が造東大寺長官を務めたことから,その職掌上からも重源とも密接な関係にあった。また顕時の娘は平時忠の妻(帥典侍)で,のち彼女は安徳天皇の乳母となったことからも当時顕時一門が平家一門とも密接な関係にあったことがわかる。さらに興味深いことに,この両家一門には『平家物語』の作者に擬された人々が数多く見うけられる。たとえば通憲の一門では桜町中納言と称された成範や憲曜,『平家物語』の伝承者として知られる安居院澄憲・聖覚らの説教師たちがそれにあたる。また『平家物語Jの作者としてもっとも有力視されている信濃前司行長や時長は行隆の息子で,ほかにもこの一門では長方や高野山入道成頼などが『平家物語』の作者群にふくまれる。また長方は信西の女を妻としており,その聞に生まれた宗隆は遣迎院像に結縁している(交名①2)。この一門のうち僧侶では天台座主顕真,成頼の息子で天台僧の成円,また行隆の息子で源空門下の信空などがおりいずれも本像に結縁している。5 三つの結縁交名一大阪・一心寺結縁経と金剛峯寺板彫胎蔵界長茶羅の交名つぎに遣迎院像の結縁交名と共通した結縁者をふくむ中世の交名資料を二例紹介したい。まず第一は大阪・一心寺に伝来する「一行一筆般若心経・阿弥陀経J(以下「一心寺結縁経」と略記〔図4〕)は各経ともに高野山・東大寺・光明山寺・比叡山・西山別所(善峰寺)の僧侶により一行ごとに分写され,総数136名の結縁者の名が行末に付されている(注4)。その主要な人物をあげると本交名同様に重源・明遍・慈円・観性・真性ら比叡山ならびに西山別所の人々である。この結縁者のうち政阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・明遍・明恵・恵敏など多くの結縁者が快慶の手にかかる遣迎院像,東大寺僧形474

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