鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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図5和歌山・金剛峯寺板彫胎蔵界憂茶羅結縁交名八幡神像,安倍文殊院文殊菩薩像,八葉蓮華寺像などの造像にやはり結縁している。第二に現在金剛峯寺に伝来する「板彫胎蔵蔓茶羅j〔図5〕の裏面には安徳天皇をはじめ阿謹上人(印西)・平清盛・重盛・宗盛・知盛・重衡・維盛・宗盛・藤原光親・嘉陽門院礼子・北条時氏やき[阿弥陀悌(快慶)といった人々の名が約150名記された結縁交名が確認されている。この交名が執筆されたのは結縁者のひとりである「修理亮平時氏」が安貞元年(1127)に修理亮に補任され,その3年後に急逝していることからその時期はその安貞元年以降のことと考えてよかろう。とくに遣迎院像の結縁交名からはこの二つの交名資料における「結衆」の中心的な役割をはたした東大寺の重源・栄西,光明山の明遍といった南都系の勧進僧の集団と,京の公家社会を中心に如法経勧進などを行なった慈円・顕真・成円・印西・湛鞍・薬忍といった天台系の勧進集団の存在が確認され,鎌倉時代における勧進組織が従来の教団の枠組みを越え,別所などを舞台に独自の宗教的な共同体(「結衆J)を形成していたことを物語る。これらの資料からも本像の勧進の母体が,東大寺復興造営ならびに高野山復興造営の勧進組織とほぼ同ーのものであったことが想定されよう。図4大阪・一心寺結縁経(部分)475

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