7王(1) 玉桂寺像,阿弥陀寺像,奈良・興善寺阿弥陀如来像,京都・大念寺阿弥陀如来像(2)拙稿「重源と栄西遣迎院阿弥陀知来像への結縁をめぐって−J (『宗教研究』686 おわりに一快慶による造像とその背景一中世における浄土教思想の浸透は,重源に代表されるように勧進聖たちによる募縁活動の手段へと連鎖してゆくことになるが,ここに取り上げた快慶の作例の多くは,造寺などにかかわる造像活動というよりは募縁活動を目的とする,いわば勧進の手段としての造像であった可能性が考えられる。遣迎院像などは他の快慶作例に比して特に体躯を太めに制作しており,この移しい数の像内納入品を収めることを前提として制作されたいわば「鞘像」的性格のものであったのかもしれない。こうした膨大な員数をもっ結縁交名の分析は,源空の一周忌追善を目的として造立された玉桂寺像の場合をはじめとして新興教団がいかなる教義や方法によって信仰者たちを包摂し,またそれを取り巻く中世的「勧進」の組織として展開したかを知るうえで有力な手がかりとなる。すなわち勧進活動は人々の信仰生活を基底として,新たな経済活動の流通経路を切り開く役割を果たしていたといってよいだろう。初期源空教団と快慶との関係は,源空門下の長西を祖とする諸行本願義の人々を中心として文暦2年(1235)に快慶の弟子行快が造立した滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来像,同じく建暦2年(1212)行快の作と推定される玉桂寺阿弥陀如来像なども弟子の源智等が中心となって源空の一周忌追善を目的として結縁勧進が行われたものといえる。またこのことは重源が入寂して以降,快慶による結縁造像の作例は減少し,また東寿院像・大報思寺像ともにその造像の背景に天台系の人々の関係が見られることからも,その造像活動の基盤に変化がもたらされたことが考えられるが,そうした事情については今後,東寿院像・大報恩寺像などの調査と分析をふまえてその実像について明らかにしてみたい。など初期浄土宗関係の作例に納入された結縁交名がやはり多くの不特定な民衆により構成されていることは快慶作例における造像の背景を検討する際に注目すべきであろう(拙稿「仏師快慶と法然中世職工人研究の新視点J (『印度学仏教学研究j44-1 )。-3 ) 476-
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