鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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⑩ 『月に吠える』研究一一萩原朔太郎ー田中恭吉司恩地孝四郎の時代一一研究者:和歌山県立近代美術館学芸員井上芳子1.はじめに萩原朔太郎は,『月映』誌上で田中恭吉というひとりの画家を発見し,計画中だった第一詩集の装順を依頼した。その頃田中は結核を病み,故郷の和歌山で療養の日々を送っていたが,遠く離れた前橋の萩原と田中の間には手紙のやりとりによる深い交流が生まれた。田中はその装輔の仕事に「生命の残部jを傾けることを約束し,猛烈な勢いで画稿に着手した。しかしまもなく病状が悪化し,1915年10月,田中はそのまま亡くなってしまった。詩集の出版計画はいったん滞り,その後約1年たって再び出版の計画が持ち上がった。こんど萩原は,やはり『月映』の同人だ、った恩地孝四郎に装頼を依頼する。しかし依頼の内容は,生前の田中の意を汲み,田中になりかわって装頼をしてほしいという異例のものであった。恩地は田中ともっとも親しい人物だ、ったからである。1917年2月,そうして出版されたのが,いまや日本近代詩における金字塔とうたわれる詩集『月に吠える』である。和歌山県立近代美術館では,郷土作家の田中恭吉に関する作品や資料を収集しており(注1),その中には萩原が恩地にあて装棋を依頼した際の書簡も含まれている(注2)。そしてそこには,「今度の出版は私一人の詩集でなく,故田中氏と大兄と小生との三人の塞術的共同事業でありたい,少なくとも私はさう思ってゐる。」という言葉がある。一人の詩人と二人の画家,三人による「嚢術的共同事業」として誕生させられた『月に吠える』。本研究の目的は,この詩集が成立した当時の状況を明らかにすることにある。この一冊の詩集について考えることによって,明治末から大正初期にかけて,「大正の個性派」とよばれる若い芸術家たちの,運命的にさえ思われる出会いとその帰結を知ることが出来ると思うからだ。萩原が田中を知るようになったきっかけは,当時,田中と思地,そして藤森静雄の三人でつくっていた雑誌『月映』においてであったという。1916年10月頃に書かれたと思われる(注3)朔太郎の「故田中恭吉氏の塞術についてj(注4)の冒頭に,「雑2.『月映』の成立とそれをめぐる状況-478-

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